TAXI事情

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 ゴールデン・ウィーク最後の日曜日は雨となりました。能登半島で大きな地震があり、3年ぶりの本格行楽ムードに水を差した上に、長期休暇の非日常期間終了を宣言するかのような雨の朝です。

 さて日常的なお話、関西では今月末からタクシー料金が値上げされるそうです。

 今、いっちゃん安い小型車の初乗りは1.7km680円で、これが改定後は1.3km600円となります。その後の加算料金が、241m80円から、260m100円となります。ぱっと見、ん?ですが、しっかり値上げです。計算してみると、わが家から職場までちょうど10kmなんですが、今タクシー乗ったら3,400円。これが来月から3,900円になります。500円コイン1枚余計にかかるとなると、これはなかなかのシビアな値上げと言えるでしょう。例の、5,000円超えたら超えた分の料金は半額という割引も無くなっちゃいます。

 ちなみに東京都内では、初乗り1.096km470円であと271mごとに100円だそうです。計算すると、10km乗ったら4,160円。やっぱり東京は高い。

 写真は10数年前に仕事でヨーロッパに行ったときにロンドンで乗ったタクシー「ブラックキャップ」です。ここでも10km乗ると約£30といいますから円にして5,000円ちょっと。まあ世界中そんなもんか。日本でも最近このタイプのタクシーが増えてきました。P9060898.jpg

 そういやわたし、最近タクシーに乗らなくなりました。昔からあまり乗らない方でしたが、最近は公私あわせて1年間に数回あるかないかです。ニッポンの一般的な社会人としては非常に少ないと思います。

 歩くことがあまり苦にならないので、仕事でも私用でも、真夏の炎天下でも極寒の日でも(大阪の極寒なんてたかが知れてます)2、3kmなら当たり前にてくてく歩きます。そもそも大阪市内やと電車、バスだけで行けない場所はまずありません。郊外でも基本的に同様で、歩きでは間に合わない場合はそもそも仕事なら公用車、プライベートならマイカーです。タクシーを使うことはない。

 駅降りてズラッと長時間客待ちしてるタクシーに乗って、初乗りとはいわないまでも近距離だとなんだか運転手さんに気の毒やし、かと言って「おつりはいりません」なんてルール違反もしたくないし。結果、乗りません。

taxi_driver.png タクシー乗るのはどんなケースかと考えてみるに、結局、飲み会が2次3次カラオケと続き終電過ぎた場合ですな。東京にいた学生時代は都心の友人んちに行くなり始発まで街をうろつくなり、ムリして下宿に帰る必要も無かった。しかし、社会人なりたてのバブル期にはよくタクシーで帰宅してましたね。だって、次の日仕事がありますもの。結果、飲み代よりもタクシー代が高くついてました。歳を重ねるとともに人としての分別が備わり、終電を逃すことはまずありません。ましてやここ2・3年はコロナで宴席そのものが激減しました。タクシーの出番はさらに無くなったわけです。

 思い出すのは、もう20年以上も前でしょうか、いまでは考えにくいのですが京都の祇園で接待があり、真夜中に大阪までタクシーで帰宅したことがありました。もうその辺のビジホに泊まった方が安い距離ですが、やっぱり次の日の仕事のためでした。祇園四条花見小路で八坂タクシーに乗り込み、運転手さんに「四條畷お願いします」と行き先を言ったところ、「はあっ!?」て怪訝な顔をされました。京都で「しじょうなわて」と言うと四条通り縄手町の交差点のことを指すのです。乗った場所から100mちょっとしか離れてません。きちんと「大阪の」をつけるべしやったという、作ったようなホントの話です。

 わたしはこの先もタクシー乗ることはあまりなさそうです。あるとしたらリタイヤ後の大分先の話、運転免許証も返納した上に身体が思うように動かなくなってからでしょうか。まだまだ先のことと思います。

ネタバレ御免

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 今年もゴールデンウィークが始まりました。コロナ規制が明けて、かつての民族大移動が戻ってきました。慶賀の至りであります。とはいうものの私は連休中、近くのイオンモールに買い物に出かけたり、古い友人たちの集まりで久闊を叙する予定はあれど、あまり遠出は致しません。コロナ前の活況が戻るということは人出・混雑も元通りということで、二の足を踏んでしまいます。20230429_081147933_iOS.jpg

 さて今日の話、出版社や書店のサイトでは、書籍の紹介で「駄作なんで読む必要なし」なんて決して書きません。一方、読書家の方々が読んだ本の感想を縷々綴るブログは、実際に読んだ読者側の素直な感想なんで、興味ある書籍についての情報を得るにあたって非常に参考になります。飲食店の口コミと同じですね。

 そんな多くの感想や書評では暗黙のルール、というより基本的な常識として、あらすじの説明は途中までで、結末まで詳細に説明することはしません。新聞ラ・テ欄のドラマの説明でも同じことですが、全部書いちゃうとドラマ視たり小説読む楽しみが著しく減ってしまいます。推理小説なんかやと、最後まで書いちゃうとそもそも読む意味がなくなってしまいます。

 記載内容にネタバレを含む場合にはそれを予め知らせて、ネタを知りたくない、読みたくない人への配慮がなされます。

 しかし例えば推理小説で、すでにそのトリックや結末がおよそ多くの人々に周知され常識となっているものは、この限りではありません。古典的な作品でポーの「モルグ街の殺人」やアガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」「アクロイド殺し」さらに「オリエント急行の殺人」などなど。が、それでもそのトリックをはっきりと書いているのはwikipediaくらいでしょうか。まだ読んでなくてこれからという人はネタバレサイトに近づかなければよいのです。

 ところが先週、朝日新聞読んでて仰天しました。

 直木賞審査委員の北方健三さんが、過去の選考の裏話を語る文化面の連載コラムですが、東野圭吾さんが「容疑者Xの献身」で同賞を受賞した際のくだりで、北方さんがトリックの核心を語った部分をそのまま載せてるのです。ネタバレを拡散できないので詳細は省きますが、ストーリー上の一番肝心な事実をさらっとひとことでバクロしてます。そして、その事実によってこの作品は直木賞に相応しくないのでは、という議論が審査上であったという内容なのですが、これはちょっとどうかと思います。

 直木賞とった作品なので、すでにそのトリックは「オリエント急行」レベルに国民の常識となったと判断したのでしょうか。確かに、ドラマ化、映画化、舞台化され、海外でもリメイクされるなど大ヒットした作品で、そのストーリー、結末、トリックは多くの人の知るところはなっています。しかしそれでもやっぱりミステリーなんやから、作品の核心に触れるところは触れずに置くべきでしょう。

 朝日新聞、政治・社会分野同様に、文化面でも記事の質低下が感じられます。

 いいお天気、爽やかな日曜の朝です。
 今日は統一地方選後半、わがまちでは市議会議員の投票日です。ブログの更新が終わったら行ってきます。朝の散歩にちょうどよろしい。

 さて、今日は村上春樹の新作について書きます。ちょっとだけネタバレしますんで、読んでない人はご注意ください。

 「騎士団長殺し」から実に6年ぶりの書下ろし長編です。6年前のエントリー読むと、当時の盛り上がりの様子が蘇ります。今回また久しぶりのハルキ祭りで、先週の発売日大型書店では前日の夜中から行列ができたそうです。こんな作家ほかにはいません。6年前よりさらに深刻化している出版不況を救う救世主といったところでしょうか。

20230422_081811235_iOS.jpg 世の風潮に迎合することを嫌い「ベストセラーは読まない」と斜に構える人も多い世間にあって、かねて宣言しているとおり私はミーハーでお祭り大好きです。6年ぶりの社会的イベントに参画しないはずはなく、かといって夜中に並ぶほどのファンというわけでもなくて、発売と同時に、初版売り切れとならないうちにamazonで注文しました。で、届いた日に夜更かしして読みました。1,200枚、約700ページ一気読みです。

 発売直後から多方面で解説されてるように、また「あとがき」で作者自身が言ってるように、この作品は過去に雑誌で発表したけど単行本にしなかった「街と、その不確かな壁」という中編をもとにした改作です。前作を読んでないので何とも言えませんが、作者自身が納得できなかった失敗作なんて言ってても、ミーハーのノリで読んでいるわたしにはどこが失敗で、改作でどう修正されたのかなんておそらくは分からんでしょう。おもしろければいいのです。

 おもしろかった。「騎士団長殺し」同様に村上春樹してます。現実と異世界の間を穴を通ってまた壁をすり抜けて行き来する、例の村上ワールド全開です。中編の改作であると同時に、後に発表した代表作のひとつ「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の構成、空気感と重複します。村上さん、失敗した中編を根っこから書き直して「世界の終わり...」を完成させ、40年近く経ってもとになった中編についても失敗として葬ることなく書き直して完成したのです。雰囲気が似てて当然です。

 実はわたし、作品の成り立ちに関するこれらの背景を知らずに読み始めました。はじめのうちは主人公の少年(最後まで名前は出てこない)の淡い初恋譚と、陰鬱さが漂う異世界での物語が交互に展開します。前者は純粋な恋愛小説のように進んでいき、それはたとえば「ノルウェーの森」のような雰囲気やなと思っていたら、例によって主人公はその意に反して突然異世界へと迷い込み、また突然何らかの力によって還ってくるのです。初恋が破局に至った原因はなんであったか、また赴任先で出会った女性との関係はこの先どう発展するのかなど、読者が知りたい謎が明かされることはありません。というか、異世界での主人公の体験、タイトルにもある「壁」が何のメタファーであるのかという重要な主題の前に、形而下に発生することどもの理屈や整合性などはすっ飛ばされてしまうのです。

 思うに、作品中で撒き散らかされた伏線がキレイに回収される小説、たとえば推理小説がその極みですが、これらは大衆小説であって直木賞の候補となります。一方、いわゆる文学作品では、登場する謎や疑問の解決を読者に委ねてしまいます。これらの小説は芥川賞の候補となります。

 つまり村上春樹は純文学の作家といえるのに、なんと芥川賞は受賞していません。芥川賞の選考に漏れた作家がノーベル文学賞を受賞した、なんてことになったら、日本の純文学界最高の権威とされる賞の値打ちもダダ下がりでしょうね。過去の産経新聞の誤報も懐かしく思い出します。それは置いといて。

 この作品の重要なキーワードは「壁」と「影」です。壁の中に入った主人公は影を没収されてしまいます。主人と切り離された影には、なんと人格と感情が備わっており自らが主人の「分身」であることを踏まえて、主人公に「壁から脱出しよう」と進言します。作中の「壁」が人間関係や社会的な境界のメタファーであるとするならば、村上春樹は壁の内と外に分かたれたのち果たしてどちらが本体でどちらが影なのかを問うてきます。また、壁が個人的な内面に築かれたものであるならば、外界と遮断された中で自己と他者との距離をどのように受け入れて扱っていくべきなのかと読者に迫ります。

 そして、当然ながらその答えが示されることはなく、読者がそれぞれ個々に解にたどり着くことが求められるのです。そう考えると文学とは何ともやっかいなものですが、同時にその解に至る作業が結局は文学の楽しさでもあります。繰り返しますが、難しいことは考えず読んでておもしろければよいのです。これからも気楽に一読者として村上春樹作品を楽しんでいきます。

片隅で聴いていた

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 新しい日銀総裁に就任した植田和男さんの会見が先週ありました。バズーカ黒田さんの金融緩和路線を継承し、当面、物価上昇2%など足元の目標達成にとりくむようです。難しい理屈は分かりませんが、初めての学者出身の総裁ということで、政治屋たちの利害に影響されない理論的かつ効果的な金融政策をお願いします。 veloci.jpg
 ところで、この植田さんを初めて見たときジュラシックパークの悪役恐竜ヴェロキラプトルに似てると思ったのは、わたしだけでしょね多分。

 さて、先週ボブ・ディランのライブに行ってきたので、今日はそのこと書きます。ノーベル賞受賞後初めての世界ツアーで、来日公演は7年ぶりやそうです。数年前に来日決まってたのにコロナ禍で中止んなったりしました。わたしにとっては初めての生ディランでした。

 神々しいライブでした。開演が少し遅れ、待ちきれない聴衆から催促のような拍手が起こる中、おもむろに登場した81歳の伝説的プロテスト・シンガーの迫力に場内はいきなりの興奮に包まれます。薄暗いステージの中央で終始ピアノに向かって動くことなく語ることもなく、ただ淡々と歌いあげていく進行は、ヘタな演出など一切なくて聴衆に媚びずに詞と曲の真髄をストレートに伝えるものでした。

20230406_074338857_iOS.jpg 2時間弱のステージで途中1回だけ立ち上がって客席の方に向かって歩きだした場面があったのですが、足元はおぼつかないように見えました。「時代の代弁者」「ロックの詩人」も、寄る年波には抗えないのです。しかし、歌は声量、質ともにまったく衰えていません。これなら80歳過ぎてなおワールド・ツアーやろかと思えるはずだわ。

 今から40年前、ガロが「学生街の喫茶店」の「片隅で聴いていた」のがボブ・ディランやったわけで、当時小学5年生のわたしは「何それ、おいしいの?」と思ったもんです。同世代では同じような人が多いのではないでしょか。しかし、もう少し上の世代にしてみれば当時30歳のディランはすでにしてプロテスト・ソングのカリスマとしてミュージックシーンに確固たる地位を築いていたのです。

 今回の機会に、ディランの沢山の曲をyoutubeで聴いてみました。じっくりと聞くとやはり心に迫るものがあります。ノーベル賞受賞というサプライズもおまけみたいなもんで、ディランはその生涯を通して(まだ生きてはるけど)時代とともにひとびとに感動を与え共感を得てきたんやなと改めて思います。

 ちなみに、ディランの受賞理由は「新たな詩的表現を創造した」ということやそうです。悦楽的な娯楽とみなされていたロックミュージックを、詩歌や小説と同じ芸術の域に昇華させた功績にノーベル賞の委員会は着目したと。まったく知らなんだけど、何年もの間候補にはなってたそうです。しかし、おそらくはディラン本人は「ロックが文学と同レベルに評価されるべく頑張ってきました」なんて、そんなつもり毛頭なかったんでしょうよ。自分の心のままにあふれる思いを言葉で表現し、感情のおもむくままにメロディーにのせて声に出したら素晴らしい楽曲となった。それを繰り返してるうちいつの間にか音楽界のレジェンドと称えられるようになったと。まあ、天才ですわな。Dylan.jpg

 今回のセットリスト、わたしが知ってる曲はありませんでした。もし何曲目かに「~How many roads must a man walk down...」なんて語るように歌いだしたら、それこそどっかーん!とさらに大受けしたんでしょうが、ディラン御大はそんなことはまったく考えません。それで良いのです。遠い日に山上路夫の詞で初めて知ったレジェンドのオーラに、40年の時を経て触れることができたのです。「間に合った」と思いました。

 最後の曲が終わったとき、脇に置いてた白い帽子をかぶると再びステージの前方へとよろよろと出てきたディラン、メンバーと横一列に並んで客席をじいっと睨んだのち一言も発せず去っていきました。アンコールを求める拍手の空しさよ。それで良いのです。

 みうらじゅんさんは「ディランのアルバムをどれか一枚聴こうと思うなら、ディランが今の自分と同い年の時に作ったアルバムを聴け」と言ってます。わたしの場合数えてみると2001年、同時多発テロの年です。探して聞いてみよ。しばらくマイブームが続きます。

 今日は統一地方選挙の投票日です。うちの市では市長選も市議選もなくて大阪府知事と府議の改選なんですが、府議は無投票で決まってて結局知事選だけです。候補者をながめると大阪維新の会の現職吉村さん以外は泡沫候補ばっかりで、投票締め切りと同時に「当確」が打たれます。盛り上がりに欠けます。

 一方おとなりのふるさと奈良県の知事選はおもしろい。一連の高市大臣関連のドタバタで保守が分裂してしもたところに維新の候補者が漁夫の利を狙う構図となっており、自民党が強い奈良県で大阪以外初めての維新知事誕生かという、目を離せない展開となってます。車で奈良まで行って、そっち方に投票したいもんだわ。まあ、お天気もいいし、ブログの更新が終わったら散歩がてら投票所に赴き、国民の義務を果たすことといたします。

 さて、三大奇書、最後「虚無への供物」について書きます。

 中井英夫という人の作品で、これもまた古い。1954年の洞爺丸事故直後に発表されました。ちなみに、この実際に起こった大災害が作中でひとつの重要な要素となってます。

 推理小説の歴史は古く、E.A.ポーが史上最初の推理小説といわれる「モルグ街の殺人」を発表したのが1841年といいますから、日本では老中の水野忠邦が天保の改革を始めた年です。その後、世界中でまた日本であまたの作品が世に出て、読書の楽しみにおけるひとつの分野として確立していきました。「虚無への供物」は、この「推理小説」というものに対して一石を投じる意味で世に問われた、いわゆる「アンチミステリー」であるというのが現代における評価です。いったい何のこっちゃいと思いつつ読み終えて、なるほどねと納得しました。

20230409_010207937_iOS.jpg 三大奇書のうちでは、ミステリーとしてそれなりに楽しめる作品ではあります。しかし、それでも奇書と言われるだけあって、昨今のステレオタイプの推理小説を念頭に読み進めるとまたえらい目に遭います。

 推理小説の基本的な構造として、殺人事件が起こって探偵が登場し、犯人を突き止め(who done it)動機を明らかにし(why done it)トリックを暴いて(how done it)いきます。探偵がすべての真相を説明するのは物語の最後で、登場人物を一堂に集めた上でおもむろに「犯人はあなただ!」と指さすことになってます。

 そしてそこに至る基本的なルールとして、有名な「ノックスの十戒」や「ヴァン・ダインの二十則」などが伝わってます。曰く「犯人は物語の早い段階で登場していなければならない」とか「犯行の方法は超自然的な力は使っちゃだめ」とかとかいろいろあります。なるほど、謎解きで明かされた真相が「犯人は行きずりの強盗だった」とか「犯人は魔法使いで、密室の被害者を魔術で呪い殺した」では推理小説が成り立ちません。古今東西の推理小説は基本的にこれらのルールを遵守して読者に知恵比べを挑む、とされてきました。

 ところが、作者の中井英夫さんはこんなルールが気に入らなかったらしい。「虚無への供物」では沢山の殺人(?)が起こりますが、探偵役の複数の登場人物がストーリーの途中で推理をひけらかして延々と議論を続けます。その中では「その説ではノックスの十戒にそぐわない」とか、「次の殺人はどこで誰が殺されるか当ててみせよう」なんて、作中人物が作品の構成を語るがごときシュールな展開もでてきます。

 探偵たちが、犯行の様子について得意げに披露する推理は結局全部ハズレで、事実は小説のような奇想天外なものではなく、肩透かしを食ったようなありきたりのものでした。

 そして、それぞれの殺人事件が、謎解きと言えるかどうかも覚束ない、なんだかもやもやした雰囲気の中なんとなく物語は終わっていきます。トリックやどんでん返しが推理小説の真骨頂という常識の中で、ミステリーそのものを否定するかのような実験的な小説、それが「虚無への供物」でした。この作品がアンチミステリーと言われる所以です。

 だいたいミステリーなんて実際にはおよそ起こり得ないフィクションであり読者はそれを承知で楽しむわけで、それをことさらに「ミステリーなんてフィクションで実際には起こり得ないんやで」ということを主題に据えて書く必要があるんかと思うわけですよ。いい湯加減のお風呂に浸かってるときに、いきなりバケツで冷水を放り込まれるようなもんです。

 さて、三大奇書の感想を順次書いてきましたが、共通して言えるのは「読み進めるのがしんどくて、読後モヤモヤが残る」ということでした。ミステリーに限らず小説なんてのもやっぱり映画と同じで、頭ン中空っぽにして耽溺できるのんがよろしい。奇書3つを読破したおかげで、今後はたくさんのミステリーのありがたさ面白さをより実感できるようになったかなと、ポジティブに捉えることとしましょう。

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katsuhiko

男 

血はO型

奈良県出身大阪府在住のサラリーマン

生まれてから約半世紀たちました。

お休みの日は、野山を歩くことがあります。

雨の日と夜中はクラシック音楽聴いてます。

カラオケはアニソンから軍歌まで1000曲以上歌えます

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