「太平洋戦争」の思い出

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 前回のエントリーで、大東亜戦争という歴史上の名称を抹消しようとする不届きな策動について書きましたが、関連してちょっとした思い出があるので続けます。ienaga.jpg

 太平洋戦争という呼称は、昭和に起こった日本史上直近の、あの戦争を総じて称するには無理があり不適切であるということを書きました。しかし、戦後になってわが国のかつての皇国史観を徹底的に否定したい勢力にとって、大東亜戦争という呼称は絶対に許せないもののようです。

 その筆頭が「教科書裁判」で有名な歴史学者、家永三郎博士でした。氏は、戦前は明治天皇や教育勅語を評価した皇国史観の論じ手であったのに、終戦後はガラリと180度主張を変えて戦前の国家指導者たちや日本軍の戦争犯罪をケチョンケチョンにこき下ろすようになり、その勢いで書いた日本史の教科書が検定で修正を求められたことに腹を立て、憲法が定める「検閲の禁止」に該当するとして、国に慰謝料を請求する裁判を起こしたわけです。

 しかも、教科書書くたびに検定意見が付き同様に裁判を起こすもんやから、第1次訴訟から第3次訴訟まであって、全部が決着するまでになんと30年以上もかかり、当時最も長い民事訴訟の世界記録としてギネスにも載りました。んで、結局ほぼ全面敗訴という結果に終わったのです。

 個別の検定項目について「この検定意見はやりすぎ」と家永先生の主張を認めて国に慰謝料の支払いを命じた部分はあったものの、「憲法が禁じる検閲にあたる」だの「表現の自由侵害」といった肝心の主張は、最高裁ですべて退けられて決着しました。

 20240420_023058434_iOS.jpgなぜ、わたしにとってこの裁判が思い出かというと、実は学生時代に家永先生の授業を受講してたからです。先生は東京教育大学を定年退官したのち中央大学法学部の教授に転任し、もちろん法律関係の授業ではなく一般教養の史学を教えたはりました。んで、その頃にちょうど、若き日のわたしも在学してたと。

 有名教授の講義とあって、教養科目にもかかわらず大教室が常に超満員でした。先生の印象は、映画やドキュメンタリーでみるところの満州国最後の皇帝溥儀に似てて、二回りほど小さくした感じの華奢な風貌で、大胆に国を相手取って切り結ぶようなエネルギーは感じられませんでした。授業の教科書が本棚に残ってました。自身の著作、ずばり「太平洋戦争」。タイトルは太平洋戦争ですが、授業中には「15年戦争と称するべきです」と言ってたのを覚えてます。

 ちょうど第1次訴訟と第3次訴訟がまだ最高裁で係争中の頃で、家永先生、教壇にあっても持論の展開は熱を帯び、大陸での中国国民の戦争被害の様子を語るときには感極まって泣き出したこともありました。事情をよく知らなかった浅学無知な私は「おもろいオッサンやな」と思ったもんです。

 史学の授業が終わって次のコマで憲法の授業にいくと、憲法の教授は「教科書裁判は家永さんが負ける。だって検閲の禁止とか表現の自由侵害とか言うけど、作者は教科書ではなくて普通の出版物としていくらでも自由に出版できるんやから」と身もふたもない話をしてて、結局そのとおりになりました。こんな分かりやすい結論を出すのにギネス級の長い年月を要したのです。

 家永先生にしてみれば、まあ負けることは織り込み済みで、それでも自らの信念を貫くために戦い抜いたということでしょう。わたしはその信念そのものには与しませんが、議論を提起したという点では評価できます。おもろいオッサンでした。

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