2023年7月アーカイブ

ホ~アチョーッ!!

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 ブルース・リーが亡くなって今年で50年なんやそうです。

 朝日新聞の夕刊ってろくな記事が無いので、購読やめよかなと思ってるところに、没後50年関係の連載があって、これは懐かしく読みました。書いてる編集委員「燃えよドラゴンの公開は小学校6年生のとき」やったとかで、なんや同い年かいって。LEE.jpg

 覚えてますとも。ブルース・リーの登場に「なんなんやこれは」と日本中の少年たちが度肝を抜かれ、その驚愕はすぐに憧れと尊崇へと変わっていきました。さらに、日本でド派手に登場したその時すでに死んじゃってたという状況が、ブルース・リーのカリスマ性を極限まで高揚させ伝説へと昇華していったのです。死者は強い。人々の心の中にしか存在せず、そのイメージは決して劣化せず限りなく精錬され神聖化されていきます。

 私も例にもれずその魅力に取りつかれた少年の一人で、ブルース・リーになりきって教室で手製のヌンチャクを振り回してたもんです。

 その数少ない主演映画が公開されるたびに、奈良県南部の田舎町から大阪の劇場に足を運びました。シネコンなんて無い時代、映画館には指定席も入れ替えも無いし、ぎゅうぎゅう詰めの館内で立ち見で観たあとはポスターや写真集などのグッズを大量に買い込んで帰りましたよ。庶民の家にはホームビデオやDVDなどはまだ無くて好きな映画を好きな時に観ることはできず、せめて雰囲気だけでもとレコードのサウンドトラック盤を買いそろえ毎日聴いてました。

20230730_004248028_iOS.jpg リーの人気は凄まじく、社会現象となりました。当時から今に至るまでブルース・リーの活躍は、小柄なアジア人リーの欧米人や軍国主義日本に対抗する反骨精神の現れであって...などともっともらしく評されますが、当時のわたしを含めたファンは、そんな理屈などこっから先も考えてませんでした。とにかく強い。カンフーアクションがカッコいい。これまでに無かった新しい、超クールなヒーローの肉体の躍動に心酔していってたのです。

 確かに数少ない主演作品を今観なおすと、日本公開第3作の「ドラゴン怒りの鉄拳」では日本統治下の香港が舞台で、悪役の日本人どもがけちょんけちょんにやっつけられる様が描かれてます。長く日本の地上波で放映されなかったのも道理、ちょっと前に話題になった現代中国の荒唐無稽なC級量産反日映画もきっとこんな感じなんやろなと思います。それでも当時は誰もが主人公のブルース・リーに感情移入し、日本人とはなんてひどい奴らなんやと思いながら観てたわけです。ブルース・リーが主役でなければ日本では全く見向きもされなかったでしょう。

 ホームビデオの時代には、出演作品の放映はすべて録画しました。その後ライブラリーはDVDにダビングされ、さらにBlu-layのメディアへと受け継がれ保管しています。もうこれらの作品は映画としてあらためて鑑賞するというより、リアルタイムで観た時代に思いを馳せるためのツールとなりました。

 時代を席巻したヒーローは、その時代の社会の雰囲気とともに、当時熱狂した人個々の感情を蘇らせます。そういう意味でブルース・リーは、人々の心に永遠に生き続けていくのです。

 今日も暑くなりそうです。早起きして洗車を済ませました。最近仕事でもオフでも人に会うたびに「暑っいねー」から話が始まります。梅雨も明け日本各地から猛暑日のニュースが伝わりいよいよ夏本番、セミの合唱もボリュームが上がってきました。温暖化が進み日本はすでに亜熱帯化してるなんてるなんて言われてる中、しばらくは暑さ対策に気を抜けない日々が続きます。

 一日中家にいる休みの日は24時間エアコンつけっぱで、昨今の電気代値上がりの中、なかなかに厳しいものがあります。先週のある猛暑日、少し風があったので試しに窓を全開し爽やかな自然の風を通すと扇風機でがまん...できるか、んなもん。熱中症で死んでしまうわと、すぐにやめました。

 さて、前回のエントリーで書いた最高裁判決に関して、先週朝日新聞が「トイレと性別」の記事を載せてたんで、今日も続きをちょっと書いてみます。

 記事ではこの判決が「個別の事例に基づく判断で...不特定多数が使うトイレについては改めて議論されるべきだ」と補足意見がついたことを書いてますが、読者がもっと知りたいところの、件のトランスジェンダー役人が使っていいトイレとダメなトイレを経産省がどういう基準で決めてたのかという点は置き去りにしたままです。まず、ここがダメ。

 そして、判決の際に最高裁も危惧した「性自認を振りかざして女性トイレに闖入するオッサンをどう排除するのか」という懸念については答えを書かず、LGBT法連合会が「それはトランス女性に対する差別を助長するものだ」と訴えた、と逃げています。ここもダメ。20230720_131411474_iOS.jpg

 そして最後に、不安を訴える女性の声を伝える議員の動きに対して「保守派はいつから女性の不安への配慮を訴えるようになったのか」と、自分では答えを出さずに、保守に対する悪口にこじつけて記事をまとめてます。これもダメ。いつもの卑怯な朝日全開ですわ。

 思うに、LGBTQに対する差別や偏見があってはならないことは当然であって、社会的な認知も相当高まってます。またそれに伴って法整備も、内容・程度について批判はあるものの徐々に進んでいます。人間が本来享受すべきまた絶対的に尊重されるべき人権のひとつとして確立しているといえます。ただ、例えば国際社会の大勢に関わらず同性婚はまだ認めないなど、保守が強いわが国においてはその認識の浸透が遅いだけです。差別、偏見はダメ、これは間違いない。

 しかし、性自認に関する権利は他の権利と比較して、影響を受ける側の権利との衝突が是認されやすいきらいがあります。例えば人種差別やなんかでは、多数派が「人種を差別する権利」など絶対に認められない。しかし、見た目男性のトランスジェンダーが女性トイレに入ってくることを拒む女性の権利は保護すべしという認識があるから、話がややこしくなってるのです。

 朝日が言いたいことは、「多数派である女性のそんな権利は保護すべき必要はない。女性が変なオッサンに襲われる危険など、トランスジェンダーの権利実現の前では無視すべき些事である」ということなんですが、そこまで言っちゃうとまた叩かれるからこの記事でもはっきりと書いてません。その上で識者の言葉の体で「多数派の側に、正しい情報を得る努力が求められている」としながら、「正しい情報」というのが何なのかを示していません。結局、一面使って特集組んだわりには主張がぼやけて分かりにくいものになってます。ダメだこりゃ。

 この問題、結局は「多数派女性の嫌悪感」とトランスジェンダーの「自認の姓に基づいてトイレを使いたい」欲求との折り合いをどこに求めるかという比較衡量論になります。これは一般的にこうだと決められるものではなくて、現時点では「一概には言えないので、個別の事例ごとに判断」という最高裁の態度が限界なのかと思います。

トイレ裁判

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 梅雨明けが間近に迫り、気の早いセミがそろそろ大合唱前のパート練習を始める中、昨日、久々に甲子園球場で阪神タイガースの試合を観戦してきました。結果は9回に追いつかれ延長で勝ち越されそのまま敗戦という最悪の展開で、夜中の帰り道のしんどかったこと。
 開幕ダッシュに成功したのものの最近の戦いぶりはなんとも覚束ない。しっかりしてほしいもんです。

toilet.png さて、いろいろと書きたいことはあれど、今日はこれを書いとかんといかんでしょうな。将来「経産省トランスジェンダートイレ事件」と判例集に載りそうな最高裁判決が先週ありました。

 経産省の身体男性・性自認女性の役人が「女子トイレ使わせろ」と国を訴えた裁判です。地裁で原告勝訴、控訴審で原告逆転敗訴。この高裁判決が出たときにこのブログでも取り上げました。リベラル層からギャンギャン非難が起こり、さて最高裁の判断は?という流れでした。

 結果、高裁判決が覆り、経産省は女子トイレ使わせたげなさいという原告逆転勝訴の判決で決着しました。高裁の判決が出た当初からわたし自身も、この判決はどうよと思ってたので、今回、やっぱりなという感じです。

 「近くのトイレを使わせて」という訴えが最高裁まで争われたかたちですが、もちろん争点は単にトイレまでの距離云々ではなくて、個々人の性自認に基づく欲求に社会がどう対応すべきかという重大な問題であって、昨今のLBGTの権利保護の流れの中でエポックメーキングな判例といえます。

 高裁では「ほかの職員が持つ性的不安なども考慮し、全職員にとって適切な職場環境をつくる責任」が組織にはあるとしましたが、最高裁は「他の職員への配慮を過度に重視する一方、原告が使用制限で受ける日常的な不利益を不当に軽視するもので、著しく妥当性を欠く」と正反対の判断です。transgender.png

 経産省は原告の役人の性自認を認め、周囲に説明もしてました。その上でトイレについては職場のフロアと上下階の女子トイレの使用を禁止していたそうです。離れたトイレは使ってもいいと。これがよく分からない。使っていいトイレとダメなトイレにどんな違いがあったのか。今回の最高裁の判断の根拠のひとつに「離れたトイレを使ってても周りの利用者から特に苦情は無かった」ことを上げてます。これいったいどんなトイレやねんと思います。

 前回高裁判決の際にも書きましたが、事件は個々個別の事情が関係してます。今回のケースも上記のとおり使ってよいトイレとダメなトイレの違いなどに関してメディアは何も書いてないので詳細が分かりません。多分何か固有の事情があったのでしょう。なので、今回の判決でもって、社会一般的に「性自認が女性なら女性トイレに入ってもいいと裁判所が認めた」わけではありません。裁判長さんは補足意見でわざわざ「判決は、トイレを含め、不特定多数の使用が想定される公共施設の使用のあり方に触れるものではない」とくぎを刺してます。この判決を振りかざして自称女性のオッサンが女湯に闖入する事態を懸念したものといえます。

 先の国会で、LBGT理解促進法がすったもんだのすえ成立したという社会的背景も最高裁を後押ししたと思われますが、実質的にトランスジェンダーの権利を認めたという点で画期的な判決と言えます。これからもゆっくりといろんな判例が形成され、すったもんだを繰り返しながらゆーっくりと社会の認知も進んでいくのでしょう。

 安倍晋三元首相が暗殺されてから1年となる昨日、大和西大寺駅前の現場に出向いて献花してきました。安倍さんの無念を思いご冥福をお祈りするとともに、遺志をついで日本を守り抜く決意を新たにしました。

 犯行は政治テロではなく宗教団体に対する恨みが根本的な原因であると報じられ、そのように理解されてます。しかし、それならば犯人がまず的に掛けるべきは統一教会の首魁や手下など本来の悪の一味であるべきでした。検討違いな逆恨みでもって、個人的で鬱屈した偏狂な感情のはけ口として一国の最重要人のひとりを死に至らしめた犯行は、まったく酌むべきところ無く極めて残忍で凶悪なものであり、最大の非難を受けるべきです。

 20230708_064908432_iOS.jpgなのに、事件発生直後から犯人に同情的な論調が根強く続いている現状には腹立ちが収まりません。いわく「暴力には断固反対する。しかし...」犯行には政治や社会にも、もっといえば統一教会と癒着した自民党にもなんらかの責任があるのでは、と続きます。左方向からは「安倍の自業自得」とはっきりと表明する輩も現れました。

 とんでもない話です。

 左派系反政府メディア筆頭の朝日新聞は、事件から1年を機に要人テロがいかに卑劣な所業か、また警護のあり方を改めて検証する特集などは微塵も書かず、自民党と統一教会との関係をさらにあげつらい、かつて国際勝共連合の事務総長やった人物を引っ張り出してきてまたぞろ「安倍氏と教会は関係があった」という話をさせて記事にしています。また、テロリスト山上徹也が拘置所でどんな記事や本を読んでるだの、届いている手紙は同情するものが多いだの、あたかも政治犯か冤罪の被告であるかのような扱いで、極悪人の犯罪者に寄り添うような記事で紙面を埋めています。

 朝日はこのテロを正当化したいのでしょうか。安倍さんと自民党政権の悪口雑言を紙面の基軸に据えていた朝日のこと、メシの種が無くなり危機感を募らせたあげくの一周忌のお祭り開始といったところです。今日の朝刊でも、安部さんが死してなお政界に影響を与え続けることを揶揄しています。それほどまでに安部さんが怖いのか、憎いのか。その偏狭な執念には唖然とするばかりです。

 さて、安倍さんが凶弾に倒れた日、私がその衝撃のニュースを聴いたのは、久々の休暇で温泉に向かってクルマを走らせてるときでした。まさかそんなという思いにおののきながら宿に着き、テレビを食い入るように見続けたあの日も蒸し暑い梅雨の最中、七夕の翌日でした。tanabata.jpg

 七夕の日は晴れないというのが通り相場です。そも織姫と彦星のロマンスはもともと中国のお話なのでそのまま日本に持ってきたら梅雨の時期やったんよ、とか子供の頃は聞かされてたけど、これはちょっと違いますよね。旧暦7月7日は、新暦にすると今年は8月23日やそうです。昔の七夕はもう梅雨も明けて夜空に横たう天の川もキレイに見える頃やったんです。

 旧暦から新暦に変わった明治の始め、七夕に限らず季節の移ろいと結びついたいろんな日を時候を無視して日にち固定で移行してしもたからいろんなズレが生じました。旧暦のお正月は今でいえば2月のはじめなんで、ぼちぼち春と言っても違和感は無くお正月はまさに「新春」でした。しかし今ではお正月は一年中で一番寒い時期なのに「なぜに春?」という違和感になってます。中国で新年を旧暦で祝うのも、日にちではなく、人の営みと自然との結びつきを重視した結果であって、このあたり日本のお株を奪われたように思います。七夕に限らず、立春、立夏、立秋、立冬など二十四節気はまさに季節を可視化したものなのに実際の時候とズレてしまってて、天気予報で例の「暦の上では春ですが...」の定型フレーズを聞くことになります。

 いっそ、新暦に合わせて節気の日にちも変えてしまえばと思いますが、それはそれでまた混乱するんでしょね。

 今年も七夕はお天気が悪かった。日本が安倍さんを悼む涙雨です。

メーモリー

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 大分前のエントリーで、昨年末にパソコンを買い替えたことを書きその際、ややオーバースペック気味であるとも触れました。しかし、使ってみるとこれがそうでもない。思い立ってオンラインゲームを始めてみたところ、たまに動作が鈍く感じることがあるのです。

 ゲームだけなら問題ないのですが、いろんなソフトを同時に立ち上げたとき、特にテレビ放送の録画をリビングのビデオからLAN経由で再生しながらゲームをやったりするとテレビの方の画像がチラついたり止まったりします。wi-fiの速度には問題がないので、どうもメモリが不足しているらしい。

 パソコンの主な部品のうちCPUは頭脳に、メモリは机上の広さに例えられます。いっときにいかに大量の仕事を並行して進められるかが、メモリの容量にかかっているのです。

 ネットの情報によると昨今のパソコンの標準のメモリは8G(ギガバイト)程度。16Gも積んでいればオンラインゲームでもサクサク動くといわれてます。わたしのんはメモリ24G挿してるんで充分やと思ってました。しかし、さっこんパソコンやゲーム機の機能進化にともなってゲームソフトが巨大化し、しかもマルチタスクで負荷が増えた結果、メモリの稼働が上限に達したようです。

20230701_213110553_iOS.jpg 先月の入れ替えの際にも、メモリは増やしてませんでしたので、今回、これなら文句ないやろと48Gに増設することにしました。倍増です。いくらなんでもこんなにいらないかなとも思いますが、将来に備えておきます。

 パソコンの機能、性能はどんどん肥大化していきます。初めて買ったのがもう約30年も前のことで、今に至るまでにCPUの速度もメモリサイズもストレージ容量も1,000倍以上になりました。隔世の感があります。自作機のパーツは使い回しが効きますが、メモリーカードなどの型落ちした古いパーツもとりあえず置いときます。「何かに使えるかも知れない」という部屋が狭くなる魔法の呪文を唱えて、何にも使えないままにどんどん溜まっていくのです。

 今回、性能アップを図りましたが、どうせそのうちさらにハイスペックを要求するゲームやその他のソフトが出てくるにきまってるのです。先行投資と心得ましょう。

 メモリといえば、劇団四季のミュージカル「キャッツ」で主役のグリザベラの熱唱を思い出します。遠い昔学生時代に初めて行ったのは、新宿西口の特設キャンプでのロングラン公演は確か日本最初のキャッツではなかったかと記憶しとります。その後大阪で何回か観ました。何度観ても楽しめます。誰と行ったか、いつ行ったか、時を経てそのときそのときのメモリー(思い出)が刻まれていきます。最近は上演がありませんが、また観にいきたいと思います。

WELCOME

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katsuhiko

男 

血はO型

奈良県出身大阪府在住のサラリーマン

生まれてから約半世紀たちました。

お休みの日は、野山を歩くことがあります。

雨の日と夜中はクラシック音楽聴いてます。

カラオケはアニソンから軍歌まで1000曲以上歌えます

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