2021年3月アーカイブ

基本は電話

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 さあ、ペナントレースが開幕しました。わが阪神タイガースは怪物ルーキー佐藤輝明のプロ入り初ヒットがホームランという活躍もあり、連勝スタートです。この調子でいきましょうはええんですが、コロナ禍の影響で甲子園球場の公式戦入場券が未だに発売されない異常事態が続いています。本拠地開幕までにはなんとかなるんでしょうけど、混乱が予想されます。本当に早く落ち着いてほしいもんです。

 さて、先週、新幹線の公衆電話が全廃されるというニュースが伝わりました。もちろん携帯電話の普及の結果で、新幹線全線でトンネルの中でもケータイがつながるようになったことを受けた措置ということです。出張の際にはよく利用しましたが、またひとつ昭和が遠くなりました。

 1598216_s.jpg街なかでも、公衆電話がおそろしい勢いで姿を消しています。「たばこ」の看板の下に小窓があって店番が一人座っている。その窓の横に赤電話があるという、ステレオタイプの街角の風景はもはや絶滅危惧種です。昭和の頃、喫茶店にはいわゆるピンク電話を置くところがたくさんありました。お店の電話を借りる人が増えたことで、もっと効率的にという店のニーズから開発された、お店が管理する公衆電話でしたが、これもとんと見かけなくなりました。

 思えば、私が社会人となった昭和の頃は、オフィスの電話もすべて黒電話でした。今や若物の中にはプッシュボタンの公衆電話ですら使い方を知らないコがいるとか。ダイヤル式の電話を最後に使ったのはいつのことやったか。

 日本で電話のサービスが始まったのは明治23年。グラハム・ベルが電話を発明してから14年後です。わりと早い。といっても、サービススタート時点の加入者は、東京・横浜の197世帯のみ。料金は現代の価値にして月額15万円で使い放題でした。高いとみるか安いとみるか。相手を直接呼出すことはできず、発信すると電話局の交換手さんにつながり、相手の番号を言って繋いでもらってたそうです。今思うと実にほのぼのですが、それでも当時としては遠くにいる人とリアルタイムで会話ができるなんて魔法のような革新技術やったわけです。その後の現在のスマホに至るまでの進化・発展は確かにすごいけれども、電話の初登場はそれを遥かに上回るインパクトであったと想像できます。

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 仕事でもプライベートでも、眼前対話できない他者とのコミュニケーションを図るためにはいろんなツールを利用します。しかし、基本的には今でも電話(音声通話)です。

 遠隔コミュニケーションツールは、TELEXやファクシミリの時代を経て、令和の現在ではスマホやパソコンでの電子メールに加えて、LINE、slack、Messenger、Teams、ZOOMなど、chatツールも含めて非常に多岐にわたっています。電話しかなかった昭和の頃までは、電話の呼び出し音さえ気にしていれば必要な情報を逃すことはありませんでしたが、いまや複数のツールをパソコンやスマホに立ち上げて構えていることが求められています。私なんか、連絡したのに返事がないと言われて、そいやTeams起動してなくて気がつかなかった、なんてことがよくあります。常にいろんなツールの窓口を開けておかねばならないし、スマホは常に身に着けている必要があります。

 さらに、これらの通信手段は常に記録が残るということを念頭におかねばなりません。ビッグデータを効果的に利用する技術についてはかつてHUAWEIの陰謀のことを書きましたが、通信の分野でも公権力による個人の行動把握が容易になっています。これはかなり怖い。

 ちなみに往年のドラマ「スパイ大作戦」では、任務の指示はテープレコーダーで行われ、再生が終わるとテープが自動的に発火して消滅しました。そんな技術力があるなら、もっとスマートに命令を伝える方法あるやろ?なんてことは、ドラマを楽しむ上では言ってはいけなかったのです。

 現代人は、他者とのコミュニケーションに際して、その内容はもちろん、手段についても慎重に選択する必要があります。電話で話すと周りに聞こえるし、LINEやメールなんかで送ると記録が残るし、結局直接出向いてオフレコで話すしかないか、なんて気を使うことになります。うーん、果たしてこれは便利になったといえるのか。

 今日は朝からしとしと雨が降ってます。コロナ禍の閉塞感が本格化してから1年と少し。感染者数は下げ止まってますが、ワクチン接種も広がり続ける中、終息に向けて少し明かりが見えてきたというところでしょうか。やはり人類は大したもんです。しかし、東京五輪に間に合うかというと見通しは暗い。先週とうとう、海外からの観客を諦めました。検討始まって以来の大きな後退が決定したことになります。五輪の先行きはまだまだ混沌としています。

 さて、これまでにも何回か書いてますが、わたしの故郷は奈良県南部山あいの下市町という小さな町です。隣接する吉野町は日本一の桜の名所かつ日本史にたびたび登場することで全国的に知名度抜群なのに比べると、下市町のネームバリューはかなり劣ります。20210313_014041054_iOS.jpg

 奈良県は邪馬台国論争の舞台であり、有名な古墳が多数点在する考古学的にも重要なエリアですが、その中にあっても下市には先史時代の史跡もほとんどありません。そんな中で唯一「岡峯古墳」という古墳がありまして、私も子供のころからよく知ってましたが、しっかりと施錠、管理されており中に入ったことも覗いたこともありませんでした。死ぬまでには一度入ってみたいと思い続けて幾星霜、なんとこのたび思わずその機会が訪れました。

 たまたま見つけたマニアックな「古墳探訪ツアー」になんと、かの岡峯古墳の名があるではありませんか。千載一遇のチャンスと心得、先週喜び勇んで参加してまいりました。

20210313_013353508_iOS.jpg やまとびとツアーズという会社の企画で、普段あまり注目されない、吉野川沿いにある古墳のいくつかを巡るというものです。実は岡峯古墳はその形状から学術的には重要な、知る人ぞ知る存在なんやそうです。

 ガイドの先生とツアー社員さんのほか、参加者は10名ほど。いずれも、泥だらけになって玄室へと這い入っていくことにこの上ない喜びを感じる古墳フリークたちですわ。先生は8年前、奈良県まほろばソムリエ検定の体験学習「榛原と大宇陀・阿騎野コース」に参加したときにお世話になった方です。久々にお会いしました。

 駅に集合したのち最初に歩いて向かったのが、私にとっては今回最大の眼目である岡峯古墳です。あいにくの小雨降る中、懐かしの故郷の街をてくてくと進んでいきます。そいや、前に帰ってきたのはいつやったか。 

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 現地に到着すると、管理者である町の教育委員会の方が待っててくれました。入口のカギを開けてもらい、いざ古墳内部へ。初めて見る中の様子。玄室正面に石棺、羨道のわきにはその蓋とおぼしき板石、そして石棺の上には県内3カ所しか発見されていないという「石棚」が聴いていたとおり確認できました。積年の宿題を一つクリアした、興奮の瞬間でした。

 教育委員会の方とは共通の知り合いもいたりで話が弾みました。ふるさとはやっぱりいいものです。

 このあと一行は、吉野川河岸段丘沿いに連なるるいくつかの古墳を巡りました。古墳の小さな入り口に殺到し、興味津々でのぞき込む一行の姿がなんとも面白い。かなり「密」になってるけど大丈夫かいな。

 道中ではタクシーも使いましたが、かなりの距離を歩きました。帰ってアイホンの万歩計見ると15㎞以上歩いてました。最初の岡峯古墳以外はほとんど興味がなかった私ですが、先生の説明をつらつらと聴くうちに、わが国の歴史の黎明に思いを馳せる古墳探訪の新たな魅力を確かに感じました。来月、同様のツアーを葛城方面で予定しているらしい。この際、もう一度参加してみよかなっと。

あの日から10年

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 飛ぶ鳥を落とす勢いで発展を続けてきた日本が、バブルの崩壊、その後の新興国の追い上げで経済大国としての国際的地位に陰りが広がり、のちに「失われた20年」と言われた困難な時期にとどめを刺すかのように起こったのが東日本大震災という巨大災害でした。あの日から10年が経ちました。

 先週は各局特集番組を組み津波の映像が繰り返し放映され、10年前の衝撃がよみがえってきました。

 10年ひと昔といいますが、もうそんなに経ったのかというのが率直な思いです。大阪では被害はほとんどなかったけど、あの日は鮮明に覚えています。

20180326_030750072_iOS.jpg 仕事中になんだかゆ~らゆ~らと揺れだし「おっとまた地震か」としばらくして収まってからテレビやネットで確認したところ、ただ事ではない震災の全容が徐々に伝わってきます。都市機能がほぼ麻痺してしまった首都圏の様子よりも、やはり津波の映像は衝撃でした。被害の詳細が明らかになるにつれて、これは大変なことになったと誰もが言葉を失いました。増え続ける犠牲者の数。壊滅した東北地方沿岸の姿。

 しかし、この甚大な被害はまだこの災害全体の序章に過ぎなかったのです。そう、原発で水蒸気爆発に続いてメルトダウンが始まりました。大地震、大津波、そして放射能汚染という三重の試練を神は日本に課しました。

 ときの民主党政権のお粗末な対応によって被災者の救済と復興は遅々として進まず、原発の処理も当然誰も経験したことがなく手探りの状態で、莫大な国費が徒に費やされていきました。そして、現在でも廃炉に向けての道筋は不透明なままです。

 しかし、日本人は強かった。助け合い我慢し合い、焦らずに少しずつ復興の歩みを進め、災害の教訓を決して忘れることなく災害に強い国土を築き防災意識を培ってきました。米国・台湾をはじめとする友好国からの励ましも心の支えとなりました。20190226_091623361_iOS.jpg

 そして、震災を克服し復興を成し遂げた証として東京オリンピック招致を実現し、輝かしい日本の再生を世界にアピールするはずでした。ところが、神様はここでも、コロナ禍という試練をさらに日本に課してきたのです。もはや世界中がオリンピックどころではない事態となり、日本国民の多くが「中止すべきだ」という意見に傾いています。政府とIOCは断固開催の姿勢ですが、極めて危うい状態で、とうとう海外からの観客をシャットアウトするところまで話が煮詰まってきました。ワクチン接種の状況を睨みながら、しばらく正念場が続きます。

 もうすぐ南海トラフ巨大地震がやってきます。地震自体のエネルギーは東日本を上回るものとされ、当然甚大な被害が予想されます。しかし、日本国民は阪神淡路や東日本での経験により、被害を最小限にとどめる心構えができています。過去の災害によって犠牲となられた尊い命に報いるためにも、我々は忘れた頃にやってくる次の難敵に対して決して侮ることなく恐れることなく、厳然と立ち向かっていくのです。

しゃぶしゃぶの思い出

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 菅総理の長男による、総務省幹部への接待疑惑が取り沙汰されてます。

 長男は東北新社という放送事業会社の部長さんやそうで、事業に対する便宜を図ってもらう見返りに高額の接待を行ったという構図で、ようは贈収賄の汚職事件です。この会社の創業者が菅首相の支援者で多額の献金をしているとかで、総理とはズブズブの関係なんやとか。

 東北新社に限らず放送関連会社は、政治家の子女を社員として採用することで、その政治家のチカラを利用して監督官庁との折衝を有利に動かすことは常識とされているそうです。業界では「東北新社は運が悪かった」とか「あれくらいのことでなぜ?」ぐらいの認識しかないらしい。そういえば、もっぱら首相と政府の悪口を垂れ流すことで視聴率を稼いでいるTBSの「サンデーモーニング」などもこの事件に関しては妙に大人しいのはなぜか。某財務大臣の甥はTBSの社員やし、小渕元総理の娘の小渕優子元特命大臣もそうでした。分かりやすくてよろしい。

 ところで、官僚による汚職事件といえば、前世紀末の大蔵省での前代未聞のスキャンダル、いわゆる「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」を思い出します。

 当時の大蔵省は銀行や証券会社に対する強大な許認可権をもち厳しい検査を実施していたところ、多くの銀行等から賄賂を貰って見返りに検査日程や内容をもらしてたというとんでもない事件でした。贈賄の方法として使われたのが、新宿歌舞伎町のノーパンしゃぶしゃぶ店での接待で、大蔵の役人の側から「あそこに連れていけ」という希望があったんやとか。

shabushabu.jpg 事件が発覚し、責任をとって時の大蔵大臣が辞任に追い込まれ、官僚にも大量の懲戒処分者を出し、霞が関の歴史上最大の汚点となりました。この不祥事の結果、財政管理と金融機関指導の権能の分離が進み、大蔵省は財務省と金融庁に分割編成されました。奈良時代以来1300年使われてきた「大蔵省」の名前を葬り去ったことからも、当時の国民の批判の厳しさと影響の大きさが見て取れます。

 この事件、個人的にもほんの少し関わりがあったんでよく覚えてるんです。と言ってももちろん、そのしゃぶしゃぶ屋さんにわたしもいましたなんて話ではありません。

 事件が発覚し、いち国民として大いに憤慨した若き日のわたしは「責任とるのは看板にすぎない大臣ではなくて実務トップの事務次官やろ」と朝日新聞に投書したわけです。すると朝日から「明日の朝刊に掲載します」と電話がありました。うっほー!

 ところが翌日の朝刊みても載ってません。「あり?今日と違ごたんかな」と思っていたところ、その日の夕方再び電話がありました。「貴方が言ったとおりになりましたんで、掲載やめました」どっひー!

 実は最初の電話があったまさにその日の夕刻、日銀総裁に栄転していた事件当時の大蔵事務次官が、大臣に続いて責任とって総裁を電撃辞任したのでした。

 辞任がせめてもう一日遅かったら、拙文が掲載されてたのにと悔しい思いをしたことで、23年経った今でもこの事件のことをよく覚えているというわけです。

 同様にこのしゃぶしゃぶ事件を契機として、国家公務員倫理法が整備されたので、役人が接待、饗応を受けることは一切禁止されたと思っていたところ、なんのことはない今回「誘われたら断らない女」を自認する高級官僚がひとり7万円以上もの接待を平気で受けていたというから呆れてしまいます。

 今回は首相の身内が関係者やったことで大騒ぎになりましたが、おそらく氷山の一角なんでしょう。多くの官僚が「ほとぼりが冷めるまでしばらくの間は、甘い汁は我慢やな」と舌打ちしていると思います。「人民は弱し官吏は強し」は星新一の名作のタイトルですが、現在では「人民は強(したた)か官吏は卑(いや)し」とでも言い換えるべきでしょう。

WELCOME

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katsuhiko

男 

血はO型

奈良県出身大阪府在住のサラリーマン

生まれてから約半世紀たちました。

お休みの日は、野山を歩くことがあります。

雨の日と夜中はクラシック音楽聴いてます。

カラオケはアニソンから軍歌まで1000曲以上歌えます

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