2021年2月アーカイブ

 明日日曜日、マンションの分電盤を一斉に取り換えるとかなんだかでなんと午前中いっぱい停電するらしい。えらいこっちゃ。パソコン、テレビはもちろん、ウォシュレットも使えないという緊急事態です。 昭和の頃、ふるさとの田舎町では台風が来て停電というのはよくあり、ぶっといロウソクは必需品でしたが、最近はめっきり無くなりました。大阪にいると台風などの災害はまずないし、工事関係でもほとんど記憶がありません。ひとたびこのような事態に遭うと、日ごろいかに電気にどっぷりと依存して生活しているかを思い知るのであります。

 そんなわけで、先週に続いて土曜日にブログを更新しています。前回に続いて裁判関係のお話です。

kousibyo.jpg「孔子廟」というと、儒教の創始者である孔子を信仰の対象として祀る霊廟、つまり宗教施設で、日本全国に点在します。東京の湯島聖堂も孔子廟のひとつです。そのうち那覇市の孔子廟の敷地を市が無償提供しているのは憲法が定める政教分離の原則に反すると、最高裁が判じました。

 憲法20条や89条は、国や地方自治体が宗教活動や宗教的組織に公金を支出することを禁じています。そして、自治体が神社に玉串料を出したとか、公金で地鎮祭をやったとかで、政教分離違反カネ返せと最高裁まで争われた裁判がたくさんあります。もちろん、微々たる公金の奪還が目的ではなく、行政の憲法違反行為を指弾するための訴訟です。

 最高裁は、過去の裁判において「施設の性格や無償提供の経緯、一般人の評価などを考慮し、社会通念に照らして総合的に判断する」との基準を示しており、今回も「社会通念に照らして総合的に判断すると、免除は、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものとして、憲法20条3項の禁止する宗教的活動に該当する」とし、無償提供を認めませんでした。

 これは難しいところです。「社会通念で判断」は判決でよく聞きますが、明快な客観的基準が無くて人によって判断が異なる余地が残ります。これでは行事のたびに最高裁までお伺い立てなきゃいけないことになっちゃいます。かといって「ややこしいから、公金の支出はぜーんぶダメ!」としちゃうと、地域コミュニティの保護・育成という行政本来の大事な機能が損なわれます。

 過去、同様の裁判で公金の支出を違憲とする最高裁判例は3回出てますが、政教分離の憲法の精神は厳然と遵守する一方で、少なくない裁判官が、地域社会に伝わる文化、行事は伝統的な宗教と密接な関係にあることを考慮し、多少でも宗教色ある組織が対象であればすべて憲法違反とすることに疑問を投げています。今回の判決でも、孔子廟の宗教性はあったとしても希薄なんで目くじらたてることもないんちゃう?という反対意見があります。

 憲法判断ということで、新聞各紙とも詳報しています。朝日は「施設の設置許可自体も違憲だとほのめかしており、高く評価する」という識者のコメントを掲載し、一方産経は社説で「社寺の伝統行事などにまで目くじらを立てるような政教分離の過熱化は避けたい」という論調で、全国の神社、特に靖国神社公式参拝に対する攻撃への懸念を示しています。

 考えてみれば、例えば慰霊碑を建てたり、式典で黙祷することも死者の霊魂という非科学的なものの存在を前提としている点で宗教的色彩は否めないし、国葬など公葬儀なんて宗派を問わなくても立派な宗教的儀式です。なぜそれが許されるのかというと「社会通念」という、人によって異なる余地がある基準に依拠しているのです。

 つまるところ、政教分離にあまりヒステリックにこだわらなくてもいいのではないでしょか。

 特に、日本古来の神道と政教分離の関わりについては思うところがありますが、かなり前に書きましたので詳細は省きます。要するに古来から今に至る八百万の神々に対する尊崇と畏怖の念は、日本人のアイデンティティーとして根付いているということです。日本の近代史の一時期において戦争という過ちを犯した国家指導者たちが、ナショナリズムを煽る手段として国家神道を利用した歴史を忘れてはいけません。しかし、それがために日本の存立の礎を成す神道を単純に単なる宗教と位置付け、必要以上に排斥することもないのではと思うのです。

茶髪?黒髪?

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 いいお天気の土曜日、しばらくは暖かい日が続きそうです。コロナ禍下でのストレスの発散のため明日早朝から釣りに行くので、土曜日にブログ更新しています。

 オリンピック関係のゴタゴタは少し離れて、久しぶりに裁判のこと書いてみましょ。

 近年の少子化で大阪府立・市立の高校再編が続いた際に、昭和の時代まで単純に地名を冠してきた多くの高校が、合併を機に私学顔負けのハイカラな名前に変わっています。

 咲くやこの花高校、淀川清流高校、大阪ビジネスフロンティア高校、枚方なぎさ高校、北摂つばさ高校、みどり清朋高校、八尾翠翔高校、緑風冠高校、門真なみはや高校、枚岡樟風高校、りんくう翔南高校...

 そのうちのひとつ、羽曳野市にある府立懐風館高校の女子生徒が、地毛を黒く染めるように強要する学校の指導はイジメに等しい人権侵害で、そのために不登校となってしまったと、精神的苦痛に対する損害賠償請求を訴えていた裁判の判決がありました。

 過去、この手の裁判は「学校の指導、裁量の範囲内」ということで生徒側敗訴となる判例が続いてます。今回も、女性が不登校になった後、教室に席を置かず生徒名簿からも削除した学校の対応は違法であるとして33万円(原告請求は慰謝料など約220万円)の損害賠償を命じたものの、染髪指導に関しては生徒側が負けた形となりました。先例に倣ったどうってことのない判決なのですが、いろんな報道を読んでると、裁判の内容はどうもそう簡単ではありません。

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 単に「茶髪の禁止は憲法違反!」と訴えたのなら、今や勝ち目はありません。染髪・脱色なんでもありの自由な府立高校もある中で、ルールを承知で入学してきたんやからという理屈を覆すことは困難です。しかし今回の生徒は、もともと地毛が茶色いのに黒く染めることを強要された、と訴えました。そうなると話は違ってくる。

 週刊誌の取材に対してこの学校の教頭は「染髪や脱色は禁止しているが、本来の色を黒くしろというルールはないし、強制したことはない」と明言しています。生徒の言い分と違ってきて、どちらかがウソをついていることになります。

 その上で判決が学校の言い分を認めたということは、生徒はもともと黒かった髪を茶色に染めたので、学校はそれを元に戻せと強く指導した、というのが裁判所が採用した事実ということになります。

 マスコミは「茶髪禁止は憲法違反」なんて判決が出た方が盛り上がるんで、そっちを期待します。しかし今回、裁判所は生徒がウソついてるという評価をしました。そうなるとそもそも憲法違反の訴えなんて真剣に聞いてももらえません。むしろ、きちんと校則を遵守している生徒が訴えた方が勝つ可能性が高かったように思います。悪法も法なり。きちんとルールを守った上でその不合理を訴えるべきなのです。

 ところで「学校の指導、裁量の範囲内」はいいとして、なぜ茶髪は禁止されるんでしょ。センセイに言わせれば「服装の乱れは規律の乱れ。非行につながる」ということなんでしょうけど、服装が乱れたから非行に走るんやなくて、非行に走ったから服装・容姿も乱れてくるんやないでしょか。茶髪や服装禁止するのは、単に学校側が統制し易いからではないのでしょうか。生徒個々の思想、言動、考え方について逐一把握し、不適切であれば指導するなんて手間は勘弁してほしい、だからぱっと見分かり易い服装やミバさえきちんとしてればとりあえずヨシとする。センセイ方御多忙の中でその方が楽なんでしょうけど、何か違う気がします。しかも他の府立高校に茶髪の生徒はたくさんいますが、必ずしもみんな不良やとはいえませんよ。

 とはいえ、この提訴ののち府下の多くの高校で「ポニーテール禁止」や「下着は白以外ダメ」などの昭和な校則を見直す動きが進んだといいますから、社会への多少の影響はあったと評価すべきでしょう。 

 東日本でまた大きな地震があったらしい。らしい、というのは昨晩家でいつになく深酒をして酔いつぶれたから、まったく知らなんだわけです。大阪も少しは揺れたらしいのですが気がつかなかった。今日も身体が怠いので、いいお天気ですが一日家で静養しています。いざ南海トラフが起きたとき二日酔いで逃げ遅れたなんてシャレにならないんであって、防災対策の面からもお酒の飲みすぎは避けねばなりません。テレビによると、東日本大震災の余震やということです。10年前の大地震の凄まじさをあらためて思います。

 さて、今日はバレンタイン・デーです。今年は週末に当たってますので一昨日、職場でたくさんチョコレートをいただいて帰りました。いつもながらのお気遣い、まことにありがたい限りです。しかし、いつも思うのですが、どれも過剰包装気味です。パッケージと小さなショッパー(手提げ紙かばん)さらにメッセージカードと、かなりの量の紙を消費します。ミバをよくするためにだんだんとエスカレートして今に至っており、日本のバレンタインがマレーシアの森林の減少を助長しているのです。VALENTINE.jpg

 ところで、1年延期になった東京オリンピック、コロナ禍収まる気配なく開催が危ぶまれているところに、組織委員会の会長辞任というドタバタが加わりさらに混とんとしてきました。あと半年しかないのに、いったい何やってんだか。

 世論では、森会長の失言はけしからんという大筋の流れは変わらないものの、ここにきてマスコミの取り上げ方に問題はなかったのかという揺り戻しが感じられます。いつものように「一部分だけ切り取って非難するのはアンフェア」ということですが、今回は各紙、そう言われないように森さんの挨拶全体を掲載しています。

 それを読むとですね、やっぱりイカンですわ。内容の是非は置いといて一応言いたいことは分かるお話してるんですが、全体の主旨を酌んでも、女性蔑視のそしりを受けた部分に正当性を与えることにはならないんですよね。挨拶全体の主旨は「東京五輪、いまさらやめるとか延ばすなんてできない」ということですが、そこになぜ「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」だの「一人手を上げるとみんな発言する」だの主旨に何の関係も無いことを言う必要があったのか。全体を読んでもやっぱり周囲に不快感を与える問題発言やということです。しかも「テレビがあるからやりにくい」「あまり私が言うと、これはまた悪口を言ったと書かれる」と自分で言いながらの失言で、言うと具合悪いという認識があったわけです。なんで言うかなあ。

 今回の騒動、何か違和感があります。なぜ森さんは辞めることになったのか。「女性を蔑視するような考えの人だったから」という理由であるべきところ、実際は「余計なことを言ったから」です。女性蔑視の人であっても、今回余計なことを言わなければ、辞める必要はなかったことになります。口は禍のもととはよく言った。せっかくいただいたチョコレート「紙がもったいない」なんて、口が裂けても言わないようにしなければ。

スマホを替えて思うこと

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 スマホを買い換えました。最新機種ですぜ。

 これまで使ってた「iPhone6s」買ったのが2015年10月ですから、なんと5年半使ってきたことになります。その間にiPhoneは7、8、X、11、SEなど進化を遂げて現行の12に至るまでバージョンアップを繰り返してきたわけですが、わたしはOSのアップデートだけで特に不便を感じることもなく6sを使ってきました。

 3年ほど使ったころに電池を交換しました。何ごともなければこの先もずっと使ってたろうけど、それから2年と少しでやはり電池がヘタってきました。朝充電100パーで仕事に出かけ、ネットやメール、電話などで半日使うとお昼ごろには50パーを切ります。家に帰るまで持たない。気温が低いさっこんは特に早くてみるみる減ってくんで充電池一緒に持ち歩いてます。これはもう限界ということで再び電池を交換しようとお店に出向いたところ、営業トークにも乗せられて最新型お買い上げに至った次第です。

 iPhone12mini。お店の人は「トゥエルブミニ」と言うてました。なんかカッコええやんか。

 6sと比べると小さくて軽いのに、画面は4.7インチから5.4インチと大きくなってます。iPhone12(6.1インチ)や12 pro(6.7インチ)の選択もアリでしたが、常に胸ポケットに入れてるんで今回もminiにしました。もう少し老眼が進んだらインチアップを考えます。

20210206_114229000_iOS.jpg 前回5年前、買い替えに至った一番の理由は容量が不足したからで、16Gから64Gに一気に増えました。しかし、今回は容量アップはしませんでした。クラウドが進化し使いやすさも改善された結果、写真など大量のデータをスマホで持ち歩くことが無くなり、64Gは半分ちょっとしか埋まってません。この先第5世代移動通信システム「5G」のエリアが広がり、映画などの巨大映像データを保存することになったら容量アップを考えますが、多分そんな必要は無いと思います。ちなみにクラウドは無料のicloud(5ギガ)では到底足りず、Microsoft OffceのOneDriveを使ってます。容量は1TBあって、10分の1も埋まってません(笑)。

 iPhoneはXの代からホームボタンが廃止されています。今回の買い替えでわたしにとって一番大きな変化はこの点で、お店の人も真っ先に説明してくれました。ロックの解除がボタンの指紋認証から顔認証に替わったので、コロナ禍終わってマスク無しで外出できるようになるまで、屋外ではいちいち暗唱番号の入力が必要です。アップルも通信キャリアも今回のパンデミックは想定外で、これは仕方ないところでしょう。

 それにしてもスマートフォン、今更ながらすごい技術やと思いますよ。もとの6sにしても、電池の劣化以外、新品の頃から性能はまったく衰えていません。この5年半の間にタップした回数、スワイプした距離たるや想像を絶します。にもかかわらず今でも液晶画面は何ら変わることなくキレイに結果を表示します。昭和の頃の耐久消費財の経年劣化を考えると驚嘆に値します。

 また、その機能にしても、電話、メール、SNS、写真・ビデオ撮影、ミュージック、映像、ゲーム、時計、画像編集、計算、買い物決済、バンキング、温湿度・気圧計、放送受信、読書にマンガ、健康管理、会員証、楽器演奏、音声記録、メモ、ニュース、雑誌・新聞、照明、その他インターネット一式持ち歩いてるわけです。

 仮に30年前に同じだけの機能を実現する機械を集めたら、テレビ、ラジオ、ステレオ、カメラ、電卓と、軽トラ一杯でも足りません。それをすべてポケットに入れて持ち歩いているわけです。もうお腹いっぱい。人類が月面に降り立ったアポロ11号打ち上げの際にNASAが使ってた巨大なコンピュータより、今のスマホ1個の方が高性能やといいますから、ヒトはスマホ1個あれば月面に立てるのです。あとはバッテリーの性能がもう少し上がって10年使っても劣化しませんなんてことになったら、少なくともわたしは生涯買い替える必要がなくなるでしょう。

 スマホに限らず、電子機器やインフラ、サービスは驚異的な発展を遂げ、今ではそれが当たり前になってます。現代人の生活はつくづく便利になって、オンでもオフでもできることが爆発的に増えました。しかし、果たしてそれが人類の幸福に寄与しているかというとなかなか難しいものがあります。確かにそれらは人類の科学技術進歩の結果ではあろうけど、考えようによっては、単に「競争のレベルが上がった」だけではないかということです。スマホにしてもパソコンにしても、現代人として社会生活を営み続ける上で、必要やから使わざるを得ない。国民誰ひとり使ってなければ自分も使う必要はない。必ずしも現代人が江戸時代の人たちよりも幸せであるとは断言できないのではないか。使いこなせないスマホの機能を前にして、そんなことを思ってしまいます。

WELCOME

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katsuhiko

男 

血はO型

奈良県出身大阪府在住のサラリーマン

生まれてから約半世紀たちました。

お休みの日は、野山を歩くことがあります。

雨の日と夜中はクラシック音楽聴いてます。

カラオケはアニソンから軍歌まで1000曲以上歌えます

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