今日は列島の各地で猛暑日となるなど、どうやら今年は梅雨をすっ飛ばして夏が来たようです。明日の日曜日早朝より仕事で出張しますので、こんな時刻にブログの更新をやっとります。
昨今使われてる日本語の単語には、昭和の頃には無かったものがたくさんあります。カタカナ語が多い。コンテンツ、コンセンサス、コンプライアンス、スキーム、アジェンダ、サマリー...。ビジネス用語が多いし、技術の進歩によって新たに生み出された概念を表すものも多いように思います。インターネットという言葉も昭和の頃には確か無かった。隔世の感があります。今「ケータイ」と言えば携帯電話やスマホのことを指しますが、通信インフラの爆発的普及に伴って定着した例でしょう。これらははじめ「現代用語の基礎知識」などの新語辞典に載ったのち、いつのまにか消えていくものもある一方で、認知が進めば広辞苑に載り、晴れて日本語として定着するものもあるのです。
そんな新語のひとつに「待機電力」があります。昭和中ごろまでこんな言葉は無かった。
はるか昔戦前戦後の頃、家庭の電気といえばもっぱら照明用でした。今でも明かりを点けることを「電気つけて」と言うのはその名残りです。それが、高度成長の時代に冷蔵庫だの洗濯機だの炊飯器だの掃除機だのアイロンだの、いろんな家電製品が普及するにつれて電気のコンセントは天井から床に近い壁に移動してきて、家庭の電力消費が増えていきました。
電気代節約のため昼間は照明消したり、電気ストーブもマメに消したりする庶民の行動様式が定着しました。誰もいない部屋の扇風機が回ってたり誰も視てないテレビが点けっぱなしなどは言語道断の不埒な所業でした。常時通電が必須の冷蔵庫はまあ例外として。そんな時代に、ただ待機するために電力が消費されていくなんてことは考えられんかったのです。
それが、今やテレビ、ビデオ機器からエアコン、給湯器、ウォシュレット、自走式掃除機に至るまで、完全に電源をシャットダウンせず待機状態にして、リモコンのスイッチオンでただちに稼働する使い方が当たり前になりました。下手にコンセント抜いたりすると、次に使うときに時刻の設定からやり直しで、実にめんどくさい。使ってないからってエアコンの電源いちいち抜いたりしたら、逆に起動に余分な電力を消費してしまいそうです。昨今の家電は、「電源抜くな」をデフォルトとして成り立ってるのです。
夜、寝る前にリビングの照明を消してざっと見渡すと、待機状態の家電の小さなLEDがいたるところで光っています。エアコン、テレビ、Blu-ray、オーディオ、nasne、扇風機、給湯器端末、電話機、インターホン、wi-fiルーター、モデム...。稼働状態に比べれば圧倒的に少ないとはいえ、そこそこの電力を消費しているのではないでしょうか。
パソコンに関しては、わたしが家にいる間はずっと立ち上げてますが、寝る前にはさすがに電源を落とします。巷では24時間稼働させてるヘビーユーザーも多いそうです。確かに、家じゅうの家電をパソコンで一元管理してるオール電化のおうちでは畢竟そうなるのかも知れません。もう、一般家庭も電気使用に関しては24時間営業のコンビニ化しているのです。
そんな中、原発の停止や戦争の影響で電気料金が高騰しているそうです。ふだんからあまり気にもせずに使ってるのでどんだけ負担が増えたのやら詳しく知らんのですが、「電気代が家賃並み」なんてニュースを視るに、やはり少しは気になってしまいます。
もうすぐ24時間エアコンつけっぱの季節がやってきます。リビングにあるシステムコンポなんて使うのは年に数回。このあたりから電源ケーブル抜いてしまおかなっと。

そういえば、例の
思うに、上記の改善策が日の目を見た暁には、与野党議員の多くに「カネが入ってこないのなら議員やってる意味ないやん」と考えるヤカラが多いということでしょう。つまり議員を続ける目的が、政策を実現し国民と国家に奉仕するということではなく、濡れ手で粟の非課税収入をたんまり獲得することやからです。その甘い汁が無くなるんやったら、誰が議員になんて好き好んでなるますかいなって考えてるわけです。だめだこりゃ。
経済産業省の統計によると、日本の2022年のキャッシュレス率は金額ベースで36%だそうです。日本中で買い物に使われた金額の3分の1以上がキャッシュレスで決済されたわけです。この割合は世界的にみると非常に低くてですね、アメリカは47%、中国でも60%、韓国ではなんと94%。つまり韓国の人はほとんど現金なしで買い物しているわけで、これは国を挙げて電子決済経済を推進、構築してきた結果です。一方ドイツはなんと17.9%と極端に低い。これは意外な感じですが、理由としてドイツ人は借金を嫌う傾向があるとか。確かに後払いのクレジットカードは借金といえます。
そもそも、大東亜戦争という呼称を公に使うことがなぜ批判されるのかには触れずに、批判されて当然ということを前提として、「大東亜戦争」を用いることは「戦争の反省の上に成り立つ戦後社会を認めたくないという一つの立場表明」であり、また「思慮なく使われてしまったのは非常に残念」と勝手なことを綴ってます。