読んだ本のことの最近のブログ記事

理工系作家

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 東野圭吾といえば、現代日本最大の売れっ子作家のひとりです。ガリレオシリーズや刑事加賀恭一郎シリーズなどドラマ化されたものも多く、人気絶大でいまや推理・探偵小説界の第一人者と言ってもいいでしょう。わたしも好きで、その作品はほぼすべてを読んでいます。

 デビュー作「放課後」が世に出たのが私の社会人デビューと同時期で、それ以降新刊が出るたびにずっと読み続けてきました。「実に面白い。」

 およそ推理小説では、犯人当てをめぐって作者と読者の知恵比べなんてことがよく言われます。いかに犯人ぽくない人が、いかに奇想天外な方法で犯行を成し遂げたのか。最後に意外な犯人や犯行の方法が判明し、ときに鮮やかなどんでん返しを演出し、読者にカタルシスを与えるわけです。

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 しかし、私に関していうと、これまでに何百冊という推理小説を読んできましたがこいつが犯人や!と的中したことなんてほとんどありません。情けない話ではありますがこれ、推理小説を手にする大方の読者が同様ではないでしょうか。作者と勝負しようなんてはなから考えてなくて、ただただ作者が紡ぎだす物語の進行に漫然と身を委ねているのではないかと思うのです。それはつまり推理もの以外の小説と同じです。

 単なる「犯人当てパズル」と割り切った作品もないわけではありません。しかし、そんな作品は話のツジツマを合わせるのにきゅうきゅうとしてて、気の利いたセリフのひとつもない。読み終えて「ふーん、なるほどそういうことね」で終わってしまい、ひと月もすると細かな筋書きはすっかり忘れてしまうなんてのが多い。具体的に作品名を上げたりしませんが、例えば旅情あふれるご当地トラベルミステリーなんて、中心となるトリックをひとつ据え付けて水戸黄門のごとく舞台を整えると一丁上がり、という具合です。

 これに対して東野圭吾のミステリーの魅力は、犯人捜しに加えて重厚な人間ドラマが展開されます。仮に事件が起こらなかったとして謎解き要素を取り除いたとしても文学作品として十分に読ませるのです。その多くが映画化ドラマ化されているのも頷けます。

20220901_233112635_iOS.jpg そんな東野作品でこれまで読んでなかった逸品を先週読みました。東野圭吾令和初の書下ろし「希望の糸」です。もちろんここで内容を紹介することはしませんが少しだけ概要を語ると、家族の絆、肉親の絆の大切さ難しさ素晴らしさをかすかに繋がった「糸」に喩えて訴えてくる作品です。さすがです。最後の部分でついホロっとしてしまいました。東野ワールド炸裂です。おそらくドラマ化されるんでしょうね。

 ただこの作品中、めずらしく「それはないわー」と思ったところがありました。刑事が女子高校生を高校に訪ねるんですが、校門で警備の人に用件を告げたところ「ここに名前書いてね」だけで、校内への立ち入りとクラブ活動中の生徒への面会を許します。ありえません。実際なら警備員はすぐに職員室に連絡し、先生がとんできて用件を根掘り葉掘り聞いた上で校長先生に連絡して対応をあおぎ、校長は教員委員会に連絡して前例を探させたうえで、後日あらためて保護者と教頭と担任が同席の上で事情聴取を許可することになるでしょう。警察から校長もしくは教育長あてに依頼文書を出せ、なんてことになるかも分かりません。

 しかしまあ、東野作品に関してはそんな細かな辻褄にこだわることは野暮というものです。物語をテンポよく読ませるために必要な演出ということで納得するべきです。

 ところで東野圭吾は大阪府立大学工学部出身で、卒業後は企業で技術者として勤務していたそうです。いわば理系人間であるにもかかわらず、プロの作家として名を成したわけで、才能には理系・文系関係ないんやなあなんて思います。そいやかの手塚治虫もお医者さんやったし、むしろ自然科学分野に秀でた頭脳が、緻密な物語を構成していくことに向いているのかも知れません。つまり、わたしには絶対にムリです。これからもいち読者として東野ワールドを楽しんでいこうと思います。

下鴨とビブリア

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 古本市が好きで機会があればあちこち行ってることは、何度か書いたことがあります。中でも京都の下鴨神社でお盆に開催される「納涼古本まつり」はよく行くんですけど一昨年コロナで中止、昨年は都合つかずで今回3年ぶりに行ってきました。

20220816_020702057_iOS.jpg 神社の広い境内で、左右には森が広がっており上空は張り出した巨木の枝葉が日陰を作っています。森の湿った香りとテントの会計レジで焚いてる蚊取り線香の香りと、膨大な古書が発する香りが入り交じり独特の匂いが満ちています。いつもこの香りを嗅ぐと、夏が終わっていくなあと感じます。小学生時代、地蔵盆のお祭りが過ぎると夏休みの終わりをいやでも実感しこの世の終わりのような暗澹たる気分になりました。あのときの空気感を思い出します。

 広い会場内を2時間ちかくぶらぶらしたでしょうか。目ぼしい掘り出し物も見つからず、この日は島崎藤村の「若菜集」の初版本だけを買って帰りました。家から往復2時間かけて古書1冊、買い物の成果だけみるとなんとも非効率的ではありますが、気分的には有効な時間の使い方でした。

 古書・古本業界は、作家や出版関係者にとってはあまり喜ばしい存在ではありません。古本は、客が買っても出版社や作者には1円も入らないからです。理不尽な気もしますが、書籍などの著作物(映画DVDを除く)はいったん適法に販売された時点で著作権者の譲渡権が及ばなくなるので、買った人はそれを誰かに売ろうが自由なのです。だから古本屋さんの商売が成り立つのです。

 これは消費者にとってもありがたい。書籍やCDなんかは本来、独占禁止法の規制の例外とされてて、再販制度により新刊書は日本中どこでも同じ値段です。今週号の少年ジャンプを1円でも安い店を探して買うなんてことはできません。

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 ところが譲渡権が無くなった古書はパソコンや豚コマ肉と同じで、お店はいくらで売ろうと自由になります。ボロボロの漫画本に1冊数千円から数万円のプレミア価格がついたり、人気がない文庫や新書なんかは新品同様でも1冊100円でワゴンに並べられるのです。

 わたしもよく古本買います。新刊のベストセラーやなんかは古本屋さんになかなか出てこないのでamazonやリアル本屋さんで求めますが、何かの拍子に興味がわいた本はたいてい中古を買います。安い。しかも本から得られる情報の質・量は新品と同じで、これが他の中古物品との大きな違いです。

 先日、そんな古本屋さんを舞台にした「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズ、たまたま読み始めたらはまってしもて、とうとう全部読んでしまいました。いちおうミステリーなのですが、ラノベというカテゴリに入るのでしょうか、軽い文章なんで1日の通勤往復で1冊のペースで読めました。

 映画化ドラマ化もされた作品なんで「小説とはいえいくらなんでもそれは無いでしょう」的な展開はまあ、マンガ読んでると思えば納得できます。それより、作者は古書店に勤務したことがあるとかで、業界の内側が垣間見られたところがなかなかに面白かったです。全部amazonで中古を買いました。当然ですが、内容は新刊本と変わりません。この得した気分は、なかなかに小さな幸せなのです。

ゴルゴ13は不滅

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 自民党総裁選が終わり岸田さんが次期総裁に決まりました。

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 いつになく盛り上がった総裁選でした。新聞各紙、テレビでもニュースもワイドショーも総裁選のヘビーローテやったんで、野党がヘソ曲げて「自民党の宣伝ばっかしすな」なんてブーたれてましたが、そんなら自分ちもそれほど国民の関心を集めるような政党になったらええやんって話です。国民にほとんど見向きもされない現状で総選挙に突入、新総裁率いる自民党に挑む野党の姿は、風車に突撃するドン・キホーテを彷彿させます。

 そんなことよりも、先週衝撃の訃報が伝わりました。劇画家のさいとうたかをさんが亡くなりました。総裁選が無かったら各紙一面トップで伝えていたことでしょう。

 わたしはゴルゴ13の熱烈なファン、読者でありました。このことはブログ始めた頃特別展のイベント行ったことなど何度か書いてきました。とりこになったのは30数年前大学生の頃、授業の合間に大学キャンパスで、帰省の新幹線で、就職活動のお供に、さまざまなシーンでビッグコミック誌や単行本でゴルゴを楽しんでいる自らの心情、その時の風景を鮮明に思い出せます。サラリー20211002_233224599_iOS.jpgンとして働き始めた当初、深夜におよぶ残業でヘロヘロんなった帰りの通勤電車でも、ビッグを読んでたら時を忘れることができました。われわれごく平凡な一般大衆がひととき現実逃避し、壮大なステージでヒーローと感情を共有し、銃弾の一撃でもってカタルシスを得ていく至福の時間でした。どれほどの読者がゴルゴから夢と希望と勇気をもらってきたことか。

 さいとうたかお氏はゴルゴのプロとしての信念について、成功率100%よりも「約束を必ず守る」という切り口を語っておられました。ゴルゴは引き受けた以上は、いかに不可能と思える困難なオファーでも必ず遂行します。自らに課したルールとして、それを基本に置いていたのです。思うにこれは、超人的技能を駆使するヒーローであってもわれわれ一般ピーポーであっても同じことなのです。近年、国家間の約束であっても平気で反故にし一向に恥じることもない国家・政府も散見されます。まさにゴルゴに鉄槌を下して欲しいもんです。

 国民的漫画家と称される人はほかにもいてますが、連載50年のギネス保持者、単行本発行総部数3億部の圧倒的金字塔です。時の国際情勢を反映した重厚な脚本は単なる時事ネタではなく、鋭い洞察に裏打ちされた深遠なメッセージを読者に向けて発信し続けました。「ゴルゴ13」は、そのものがで文学、絵画、映画などと並び立つ総合芸術のひとつのジャンルと言っても過言ではありません。

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 作品の品質を維持継続させるため、プロダクション方式を早くから確立し、スタッフとの共同作業で仕事を進めてはったとか。近年になって、分業の中でさいとう氏が直々にペンを入れる部分が徐々に減ってきたのが分かるようになってきました。しかしゴルゴ13(デューク=東郷)の顔だけは最後までご自身で仕上げたはりました。ファンとしてこれは嬉しいことでした。

 不死身のゴルゴ同様に作者さいとうたかをも永遠に存在し続けると、なんとなく信じていました。これは多くのファンも同様であったと思います。突然のご逝去の報は何だか現実味がありません。

 ゴルゴ13の連載は今後もスタッフによって続けられるということです。これも嬉しい話です。常々さいとう氏は最終回の原稿を保管していると話してましたが、ファンとしては氏の退場と同時に最終回も読んでみたい気がするし、一方でゴルゴは不滅であって、作中でも歳を取らず永遠に活躍してほしいとも思うのです。ました。これは多くのファンも同様であったと思います。突然のご逝去の報は何だか現実味がありません。

 素晴らしい作品をありがとうございました。深甚なる感謝とともに、心からご冥福をお祈りいたします。

恩讐の彼方に

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 先週のエントリーの話を少し続けます。

 復讐する動物は人間だけということを聞いたことがあります。確かに、動物に危害を加えようとした場合は逆襲されますが、これは単に生存本能に基づく外敵の排除であって、誰かに受けた行為によって恨みを抱き、ずっと覚えてて満を持して仕返しするなんてことは考え難いです。ヒトのみに生じた高度な本能と言えます。

 高度な本能だけに扱いが難しい。ひとたび生じた復讐心はちょっとやそっとでは消えません。それが消えてしもたという稀有な例が、菊池寛の小説「恩讐の彼方に」です。中学か高校で教科書にあったような気がします。大正初期の作品でもう著作権も消えてるんで、ネットに全文掲載されてます。久々に読み返してみました。

domon2.jpg 江戸時代、はずみで主人を殺して逃げた侍が、逃げた先々でもやけになって悪事を重ねたのちに改心して出家の旅に出ます。九州豊前の国の海岸崖沿いにある通行の難所に至り、自分の罪滅ぼしとしてここに安全に通れる道を通そうと堅い岩山に金づちとのみで一人トンネルを掘り始めます。当初土地の住民からはバカにされますが、その後理解を得て手伝ってもらうものの、すぐにまた一人になってという作業を延々続けるうちに20年以上が経過します。一方、殺された主君の子もまた仇を求めて全国を経巡るうちとうとうこのトンネル堀りの現場で仇敵を発見します。すぐに殺そうとしますが、完成するまで待ってやれという沿線住民の要請もありいったん延期して、早く開通させるため自分も一緒に穴掘りを手伝う羽目になります。ようやく貫通したとき坊さんに「約束やし、さあ斬れ」と言われても、「敵を討つなどという心よりも、このかよわい人間の双の腕かいなによって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱい」になって、とても復讐など実行できませんでした、というお話です。

domon3.jpg この話のもとになったトンネルは「青の洞門」といって大分県中津市に実在し、指定文化財、観光名所になってます。実際は偉い坊さんが托鉢で資金を集めて作ったといいますから、小説は菊池寛の創作とは言え史実にインスピレーションを得たのでしょう。ちなみに開通後は通行料を取ってたので、日本最古の有料道路とも言われてるそうです。

 この場合、主君の息子が復讐を思いとどまったのは、時効で復讐心が失せたからではなく、仇が時を経て自らの行為を償うのみならずいかにも立派な人物となっており、その人徳の前には自分の復讐など意味がないと悟ったからです。要は、加害者がどれほど反省しその償いにどれほど真摯に取り組んでいるか、という点が評価されるわけです。洞門のような例はレアケースで、普通納得できるような反省と償いはまあ、ありません。結果、被害者遺族の復讐心が消えることは無いことになります。

 復讐の思いを抱くのが人間だけならば、その思いを捨てる心を持てるのもまた人間だけなのです。

復讐の行方

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 コロナ、パラ五輪、アフガン、政局、盛りだくさんの先週のニュースヘッドラインでひときわ異彩を放ったのが、街頭で人に硫酸を浴びせるというとんでもない傷害事件でした。犯人が逮捕され事情が明らかになるにつれて、どうやら動機は学生時代の恨みに基づくもの、つまり復讐ということやったらしい。

 復讐、重いテーマです。報復、仕返し、仇討ち、意趣返し、リベンジ、いろんな言い方があるということが、人の本性に深く関わっていることを示してます。urami.png

 その昔、人々がまだ頭にちょんまげを載せてた頃、「仇討ち」はむしろ美談とされ、成し遂げた人は「よくやった、あっぱれ」と褒められてました。忠臣蔵なんてその最たるもんです。それが現代では、たとえ仇討であっても、他者を肉体的に傷つけることはもちろん、誹謗・中傷や名誉毀損その他法令に触れる行為は許されません。いわゆる自力救済の禁止とういやつです。自分でやる復讐はダメ。そのかわり国が代わってしっかりと悪い奴をとっちめてあげます、というのが現代社会のシステムなのです。

 今回の犯人、復讐という目的は果たしたと言えますが、それが適正な行為であったかというと絶対にそうではない。相手と自分の人生をぶち壊してしまった。バケツで水をかけるくらいで満足していれば笑い話で済んだものを、愚かなことをしたもんです。恨みに燃える人は自分中心に物事を考え、見境が無くなって暴走しがちです。現代の法が復讐、かたき討ちという動機を正当化しない理由のひとつがここにあります。

 とはいえ、正義が悪をやっつける勧善懲悪の欲求は人の本能に根差してて、悪事を働く敵役に対する鉄槌は快感として作用することから、映画であれドラマであれ復讐劇は基本的パターンとして堪えることがありません。「恨み晴らします」の必殺仕事人シリーズは長く続いたし、今では復讐劇に特化した「スカッとジャパン」なんてバラエティー番組まであります。いずれもひどいめにあった人が悪人に報復を加える、あるいは悪人が悪事の報いでひどい目にあうことで、観ている人は本能に根差したカタルシスを得られるのです。ところが。

kirinohata.jpg これまで読んだり観たりした復讐劇のうち、このパターンに当てはまらないものがひとつだけありました。それがかの松本清張の小説「霧の旗」です。有名な作品で、繰り返し映画・ドラマ化されてるんで「ああ」と思われる方も多いでしょう。ネタバレで続けます。

 無実の罪で死刑判決を受けた犯人の妹が、優秀で有名なある弁護士に兄の弁護を依頼したところ、高額の弁護費用を払えず断られます。結果、兄は控訴中に獄死しちゃったんで妹がこの弁護士に恨みを抱き、復讐を企て見事にやってのける、というストーリーです。

 おかしいのです。冤罪で死刑判決は誠にお気の毒ではありますが、復讐するなら、真犯人か警察か、はたまたこないだの指定暴力団の親分の事件ではありませんが裁判官に対してでしょって話なんです。弁護士さんは正当な職務活動において、単に契約内容が折り合わず仕事を引き受けなかっただけなのに、それが「あんたが引き受けなかったから兄は汚名を着せられて死んだ」とは、とんでもないとばっちりです。読んでる最中から「をいをい、それは違うんやない?」と思いつつ、最後までそのモヤモヤが回収されずに「見事復讐を果たした」という、ドヤ顔のやり切った感満載で終わっちゃったもんやから、実に後味の悪さが残りました。

 その後つらつら考えてみるに、これは単なるスカッと復讐劇ではなかったわけです。社会派の巨匠清張先生はありきたりの勧善懲悪を書いたわけではなく、世の中は見事な復讐を果たしたとしてもそれが必ずしも正義の実現ではない場合もあるよ、悪とされて復讐の的にかけられた人にも言い分があるんよ、ということを言いたかったのかも知れません。単に復讐劇完遂の爽快感を求めて読んでたら痛い目に合うよということか、と納得した次第です。

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katsuhiko

男 

血はO型

奈良県出身大阪府在住のサラリーマン

生まれてから約半世紀たちました。

お休みの日は、野山を歩くことがあります。

雨の日と夜中はクラシック音楽聴いてます。

カラオケはアニソンから軍歌まで1000曲以上歌えます

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