読んだ本のことの最近のブログ記事
文庫本は、溜まっていきます。
ふと気がつくと、書架から溢れてクロゼットの上CD・ビデオキャビネットの隙間、机の上とその周辺、はては床の上まで、止めどなく増殖します。毎日なにかしら読んでるわけですから増えるのは当たり前で、処分しないもんやからだんだんと収拾がつかなくなっています。古いものから思い切って処分しようかとも思うのですが、買った本を手放すのはなんとなく抵抗があるのです。
つらつら考えてみるに、これまでの人生でマンガ本などの雑誌以外の本を捨てたことがありません。ブックオフにもっていったこともありません。その当然の帰結として現在の書斎はいうにおよばず、押し入れの中も壮絶なことになっています。実家の物置などにまとめて移動したこともあります。悲しいかなそれらの本のうちには目を離しているうちに実家の両親がサクッと捨てたり燃やしたりで、気がつかないうちに失われたものが少なからずあります。しかし、入手した本を自らの意思でもって手放したことは、記憶の限りありません。
もともとモノに対する執着が強いほうで、捨てることが苦手なのです。断捨離なんて所業は私にはとうてい不可能やと悟ってます。折にふれてうちの奥さんのヒンシュクをかっています。ただでさえ狭いマンションの収納は、残された生涯において二度と再び手に取ることのないものどものために費やされるべきではないという、その理屈は確かに道理です。しかし、手に入れた持ち物のひとつひとつには、かつて自分に関わった歴史の一端が記録されています。特別の思い入れなどなくとも、その物を処分していしまうことはその当時の自分の思い、考え方、行動、つまりは人格を処分してしまうような気がしてどうにも決まりが悪い。思い切って捨てたら捨てたで、そのごの人生においておよそ後悔することなどないとは理解できるのですが、そういった理性に対して感情が戦いを挑み、そして勝ってしまうのです。困ったもんです。
さて、その溜まっていく文庫本なのですが、出版社は売上げ伸ばすために折にふれていろんなキャンペーンを張り読者にアピールします。いちばんポピュラーなのがシール貯めると景品あげますよ~の類です。講談社文庫はむかしから10枚貯めるとブックカバー進呈という企画をずっと続けてました。新潮文庫は読者プレゼント「必ずもらえるYonda?CLUB」でもって、同じくカバーの端っこについてる三角マーク貯めると、枚数に応じてマグカップやマスコット人形などの景品がもらえる企画をやってました。
文庫本10冊なんてあっという間です。私もこれまで講談社からそうとうな数のブックカバーをいただいております。また、新潮文庫のほうもストラップやブックカバーなどもらってます。そして、確か50枚やったと思いますが腕時計もゲットしました。そのとき、もう50枚貯めて2個目の腕時計もらったら、姪姉妹の就職祝いに「非売品プレミアもんやぞ」とか言って進呈しよう、と思ったのが2年ほど前でした。
んで、先週「新潮も講談社もマーク溜まってきたし、そろそろまとめて応募しようか」と急に思い立ち、ネットで調べたところ、なんと、なんと。どちらも「キャンペーンは終了しました」の告知があるやないですか。が~ん。
新潮の「Yonda?CLUB」はともかく、講談社のブックカバーは確か何十年も延々と続いてたはずです。まさか終わりがくるなんて想像だにしていませんでした。
うかつでした。しかし、今回の失敗に限らず「知らない間に終わってた」ことが他にもたくさんあるような気がします。「思い立ったが吉日」は確かに真理なのです。街の店先で見つけた商品「あ、これいいな」と思ったらすぐに入手しないと、覚えといて次の機会に買おうとするとたいがいは忘れてしもたり、売り切れたりで結局縁がなかったとあきらめることになります。逆に縁あってわたしの手元へとやって来たモノたちはやっぱり迂闊には捨てられんよなぁ。などと、切り取ったマークの山を恨めし気に見つめながら、そんなことを思いました。
昨日、日帰り帰省しました。故郷吉野は大阪からもわりと近いので、たまに帰ってるのです。したがって別にお盆やからといってことさらに訪れることもないわけなんですけど、やはり日本人のサガと世の風潮に抗うことはせず、電車乗って帰ってきました。
普段はクルマなんやけど、昨日は夏休み恒例中学校同級生のあつまりなどあり、往復電車にしました。
吉野へは大阪阿部野橋駅から近鉄特急に乗ります。アベノといえば新名所あべのハルカスですが、展望台「ハルカス300」の人気はいよいよ高まり、昨日も当日券を求める長蛇の行列が通路まではみ出しているのが対面の天王寺駅からも見えてました。のぼってみたいけど時間がありません。また今度の楽しみとしましょう。
ところで、ハルカスの展望台にのぼる場合は「昇る」「登る」どっちでしょ。普通のビルの最上階や屋上なら間違いなく「昇る」でしょう。しかし展望台として日本最高所、要する時間も最長となれば登頂の苦労を含めて「登る」でも間違いではないような気もします。「上る」もあります。日本語のあいまいで面白いところです。
車窓から眺める吉野川、先日の台風11号の際には著しく増水しました。昨日は平時に比べるとまだ少し水位高く水も濁ってますが、広い河原には多くのクルマが乗り入れ、水泳やBBQなど楽しんでます。見慣れた吉野川の夏の光景です。水際にテント張ってる人もいる。どうかお気をつけて。
おかげさまで高齢の両親ともに息災で、いつもながらに縷々世間話などしたのち、目的の宴席に参加すべく街中へと向かいました。
何故か今年の夏は、甲子園開幕以降すっきりした好天に恵まれていません。きのうなんかはその最たるもんで、終日曇り空、ときおりスコールのような豪雨に見舞われ、やんだ!と思ったらしばらくしてまた土砂降り。なんとも不安定なお天気やったので、予約したビアホールはあきらめ、綺麗なワインバーに場所を移しての開催となりました。それはそれでいつもながらの実に楽しいひとときを過ごし、うちに泊まってもっと飲んでいけという、仲間のありがたい言葉にすがりたい誘惑に打ち勝ち、後ろ髪をひかれながら夜半過ぎに帰宅したという次第です。
今年のお盆休み、先週半ばには、下賀茂神社糺の森で開催された恒例の下賀茂納涼古本まつりに出かけたのです。こちらもお天気がすっきりせず、ときおり強い雨が降るなかの古書散策となりましたが、2時間ほどうろうろしているうちに雨はあがり、人出も増えてきました。露店のワゴンもブルーシートが取り除かれ、並べられた文庫や新書もじっくりと探すことができました。
この日求めたのが写真の4冊。結果的に奈良・吉野関連の書籍が多くなりました。故郷下市の誇るべき歌人、前登志夫氏のことは以前にも書きました。お盆の帰省をひかえた日に目についたのもご縁と思って思わず手に取ってしまいました。故郷と物理的な距離が変わるわけではないけれど、心情的に故郷に呼ばれているのでしょう。果たして帰ってきたご先祖様のなせる技でしょうか。
さて、長いお盆休みもいよいよ明日で終わり、仕事が再開されます。故郷に癒された心情と、友人との楽しい時間の代償としていささかダメージを受けた肝臓を抱えて、気力が満ちた状態でいきなりフル回転の日常へと戻ってまいります。
およそ人が仕事をするということは、どんな仕事であっても必ず世の中の役にたっています。もちろん犯罪などの反社会的行為は論外ですが。中でも政治家は、国のため地域のために直接つくすことを仕事として収入を得ます。私利を捨て公けのために働く、立派なお仕事です。だからこそ国民、住民は、彼らから何らのサービスや商品の提供を受けるわけでもないのに、彼らの給料の一部を文句も言わず負担しています。
しかしながら、ちょくちょくとんでもない議員のことが話題になります。最近では政務調査費の使い込みがバレそうになったんで、まったくわけの分からない号泣記者会見でごまかそうとしてかえって世界中の笑い者になってしまったバカ。こんな輩は、自分の仕事を理解していません。選良としての使命感が欠落しているのです。兵庫県民の皆さん、お気の毒です。あなたたちが選んだ議員サマですよ(^^)
思うに議員という仕事は、国や地域が今後将来に向けていかにあるべきかということをしっかり考えてほしいもんです。それが最も大事な仕事やと思うのやけど、近年の議員先生たちは、いかに選挙区や選出母体の都合のいいように政治を動かすか、いかに多くの予算を選出地盤や支持団体に引っ張るかが最も大事な仕事となっています。これでは天下国家を語るという政治家本来の仕事はなかなかでけへんなぁと思うのです。
思い起こすのは明治維新を駆け抜けた志士たちの仕事です。彼らの多くは本当に国の将来を憂いて私欲を捨てて動いた。中には自らの栄達を望んだ場合もあったけれど、少なくとも公けのために尽くし名を残しました。そのおかげで今日わが国は、いろんな多くの問題を抱えながらも坂の上の雲に手が届くほどの発展を見ました。号泣会見の恥知らずなんかは論外として、政治家というからには金と欲を満たすのみでなく、「日本の将来はどうあるべきか、国民、市民のために何をすべきか」をほんの少しでもその意識の片隅に置いてほしいもんです。
司馬遼太郎が好きで、たいがいの作品は読んでいます。
どの作品もそれぞれに素晴らしく、作者の確固たる歴史観に支えられた時代の情景が圧倒的な迫力で迫ってきます。いったいどれだけの調査と研究を尽くせば、これほどまでの仕事ができるのか。この世に生を受けたからにはライフワークのかたちを後世に残したいと願うのは人の常であったとしても、こんなスケールで人々に感動を与え、支持されてきた人を他に知りません。
膨大な司馬ワールドのうちからベストスリーを選ぶとすれば、
『竜馬がゆく』
『坂の上の雲』
『翔ぶが如く』
あくまで「私なりに」の思いですが、これは多くの人の賛意を得られる自信があります。
「竜馬がゆく」はとにかく痛快。難解な文章を用いない司馬作品の中でも軽くて読みやすく、漫画雑誌を読むようにトットコ読み進められる。そして読み終わると皆一様に「よおし、俺も竜馬みたいになるどーー!」最初にこれを読んでしまうともう司馬遼さんのとりこになってしまいます。若いころのわたしがそうでした。こどもたちに読書の面白さを摺込むのにももってこいの傑作やと思います。そもそも日本人は坂本龍馬が大好きですが、その人気はこの作品が世に出たことが大きく影響してるんやないでしょか。
「坂の上の雲」「翔ぶが如く」はともに、日本という国と日本人がその悠久の歴史の中でもっとも劇的に変化を遂げた激動の明治という時代にあって、近代国家を形作った人たちが国の中枢において何をしてきたかを描きます。綿密な調査と鋭い分析によって重厚に裏打ちされた物語がドラマチックに展開し、今日の我が国が国家としての体をなしているのは、志高き有為の志士たちがいたればこそであるということをあらためて教えてくれます。
さらに登場人物の行動を通して、日本人が日本人であることの意味、日本人でいられる理由、志とはなにか、人は一生のうちに何をなすべきかなど、多くの示唆を与えてくれます。
「日本人は全員読むべきである」なんて言うと何かの教祖様みたいで怒られそうですが、将来を担って立つ若者たちには、本当に読んでほしいと思います。
昭和になって日本は、侵略戦争という過ちを犯して悪者になってしまいました。そのことは真摯に反省し二度と繰り返さないことは肝に銘じる必要があります。しかし、過ちを後悔し自らを卑下するがゆえに、日本人としてのアイデンティティを喪失することがあってはなりません。国際社会において信頼を築き上げ世界の平和に寄与していくために、また、自由と民主主義、基本的人権といった人類普遍の価値を尊重する強くて優しい国と国民であるためには、まず自らがそれに適う力があるという自覚が必要です。
司馬遼太郎の作品は、日本人にその自覚と勇気を与えてくれる、現代の良薬やと思います。
やっぱり、中学生高校生必読の書としてもらうわけには、いかんもんでしょか (^^)
先月から朝日新聞で夏目漱石の「こころ」が連載されてます。朝日の社員やった漱石が大正時代に書いた際のスタイルのまま、今によみがえっているのです。
漱石の作品は「三四郎」「それから」「虞美人草」「行人」など朝日新聞に連載されたものが多いのですが、「こころ」もそのひとつで、漱石の代表作のひとつとして今に読み継がれている名作です。我が家にある「こころ」は偕成社という出版社の少年文学全集のもので、小中学校の図書室にズラッと並んでるタイプのハードカバー本です。自分で買ったのか、それ以前からうちにあったものか入手の経緯は覚えてませんが、なんしか読んだのは中学生のときでした。
「小中学生向け」のシリーズということで難語の注釈も子供向けになってますが、果たして「こころ」を小学生が読めるものかどうか、いささか疑問ではあります。少なくともわたしの場合は、中学生やったけどおもしろかったとか感動したとか、なるほどと得心したということはなかった。
「〈上〉先生と私」「〈中〉両親と私」ときて「〈下〉先生と遺書」は「先生」が「私」に郵送した手紙という設定ですが、こんな長大な文章、封筒で送れるわけないやんか、原稿用紙に書いたとしたら段ボールに入れてクロネコ呼ばないと無理やろ、漱石さんたのんまっせ、と物語とはおよそ関係のないところでひとり突っ込んだことは覚えています。
高校時代に現代国語で再会して読み直し、なるほどそういうことかと多少納得したような次第です。この現国の先生、なんだか教材に関係ない(しょーーもない)ことをツラツラ喋ってるうちに時間終わってしまうことが多く、クラスのキレた誰かが「先生、結局この部分の主題は何なのですか?」なんて質問しようもんなら、「そんなことは今までの話の中で自分で感じろ」なんていう、とんでもない教師でした。
話それました。「こころ」です。今あらためて読み返してみると、「先生」やその友人「K」はなぜ死んだのやと思う?という漱石の設題に対して、最初に読んだときとは違った解が浮かんできます。文学作品は何回か読み直してみるのもいいもんです。それもかなりの年月を隔てた方が、違った見方をする自分に気づきます。これは文学に限らず、たとえば映画や音楽にもいえると思います。歳とった分いろんなものが身についてきたということでしょう。
主題に関係ないといえば、大学を無事卒業した「私」と「先生」とのやりとりの中に「まだ卒業もしていないうちから教師の口を探すような友人もいる」というくだりがあります。当時、大学への進学率は1%未満、超高等教育機関です。現代の18歳人口120万人、東大・京大の入学定員がそれぞれ約3,000人として、あわせて全国の同学年の約0.5%ですから、当時の1%の学士様がそれに匹敵する超エリートレベルやったというのも納得です。社会から引く手あまたで、大学さえ出ればやりたいことはそれこそ何でもできたでしょう。100年後のこんにち、2人に1人が大学に進学する時代となりました。天上の漱石先生、はたしてどう思ってみているでしょうか。
さて、今回の朝日新聞の企画は、「名高い文豪、夏目漱石はわが社の人間やったんやぞ、すごいやろ。名作をもう一度読ませてやるからありがたく思え」という匂いがプンプンしてなんとも鼻持ちならない。「天声人語書き写しノート」なるものを売っている朝日のこと、ひょっとして…と思ったら案の定、もうすぐ連載のスクラップ帳にも使える、その名も「こゝろノート」を配布するのやとか。まったく呆れた話です。読ませてやるのみならず切り取って保存させてやるのやから、いや増してありがたく思えと。まあ、ずいぶんと上からくるやないですか。
これは是非とも手に入れてスクラップを完成させなければなりません。わたしは、大新聞の傲慢な態度に反駁する気持ちはあれど、それを凌駕するミーハー精神を持ち合わせているのです。連載の切り抜きはもれなくとってあります。せっかくの機会を逃す手はありません。企画に乗って楽しませてもらうこととしましょう。さっそく販売店に電話して注文しました。早く届かないかなぁ(^^:)
ところでこの「こころ」、毎回冒頭に「心」をデザインした四角いロゴが載ってますが、副題のようなかたちで「先生の遺書(○○)」とタイトルがつけられてます(○○は連載回数)。漱石は当初この小説を「こころ」という短編集の最初の巻とするつもりで、「先生の遺書」というタイトルで書き始めたそうです。それが思いのほか筆がノッた結果、長編になってしもたらしい。したがって連載当時は「先生の遺書」やけど、連載終わって出版される際には「こころ」に変身したということやそうです。何とも計画性のない話。けど、小説家の仕事なんて、特に連載の場合は今でもそんなもんなのかも知れません。
朝日の連載小説といえば、同じく先月、宮部みゆきの「荒神」が終わっちゃいました。わたしはどっちかというと一気読みしたい方で、毎日少しずつ読んでいくのは苦手で、連載を始めから終わりまで読み切ったなんてことはほとんどありません。しかし、好きな作家さんということと、たまたま連載の開始に気が付いたということから、今回は毎朝かかさず読み続け、1年とちょっとでコンプリートしました。
宮部得意の時代小説と、同じく得意分野のファンタジーを合わせた内容です。ウルトラマンシリーズよろしく怪獣なんか出てくるもんやからどうなることかと思いながら読んでいきましたが、最後には宮部らしい爽やかな感動とともに収束していきました。やっぱりうまいもんです。
仕事の都合で2・3日飛んでしまったりといった危機も乗り越え、途中で登場人物がわからなくなったりもしましたが、単行本にはない連載の楽しみ方を思ったしだいです。
今は夕刊で今野敏の「精鋭」という連載を読み続けてます。この作家さんは重厚な警察小説を得意としているらしいのですが、私はあまり知りません。今度の連載も予備知識まったくなしで読み始めましたが、どうやら警察ものぽいです。風呂上りにビール飲みながら読むのが日課になってます。しばらく楽しませてもらいましょう。