仕事のことの最近のブログ記事
仕事で土曜、日曜と金沢に赴いてまして、先ほど帰ってきたようなわけで、こんな時間のブログ更新となりました。全国の大学コンソーシアムの大会のようなフォーラムがあり、勉強してきたのです。
金沢の街は実に久しぶりで、つらつら思い出してみるに過去金沢に来たのは、北陸にあまたある温泉地に出かけた帰りにちょこっと寄ったり、白馬山麓にあまたあるスキー場からの帰路、足をのばしてちょこっと寄ったり、つまりはクルマの旅でした。
今回は仕事なので大阪からサンダーバード号で往復ですが、そう考えると列車で金沢行ったのは初めてやったかも。
金沢は3月の北陸新幹線の延伸で、今や国内は言うに及ばす、世界中から熱い視線を浴びてます。帰りに時間があったので、その活況を感じてみようと駅前の広場に出てみたところ、日曜日ということもあってかたいへんな人出で、ゆるキャラやこどもたちの太鼓のバフォーマンスに大勢の観光客が足を止めています。兼六園行きのバス乗り場には長蛇の列ができています。
多分にもれず外国人も多い。西洋人も見かけますが特に中国人が多い。とにかく五月蝿くて行儀が悪いから、遠くからでもそれとわかる。困ったもんです。
ところで昨夜、せっかくの金沢の夜を満喫すべく、一緒に行った同僚たちとレセプションを抜け出して片町と並ぶ市内有数の繁華街「香林坊」に繰り出し、大いに盛り上がりました。やっぱりサカナが美味しい。大阪でいつもいただくお刺し身と比べると、値段はさほど変わらんけど質がいい、量が多い。久しぶりに堪能しました。
そして今日のお昼、金沢をあとにするに際して最後の食事に美味しいサカナ再びと、金沢駅ナカのとあるお店に入り海鮮丼を頼んだところ、
「あり?」
なんだか微妙な違和感。うつわが、その何というか、細くて深い。いったい何なのだ?
そして、食べ始めて理解しました。ドンブリの直径が小さいと表面積が減るから、少ない具で下のゴハンを隠してしまえます。その分深くしてあるので、容量自体は変わらんというわけです。
う~ん。これは、何というか、セコい!
わたしが入った店、駅ナカでしかもお昼時というのに空いてたから、たまたま、この店の経営がひっ迫していたということかも知れません。であるならば、わたしの運が悪かった。
しかし、これからは、新幹線に乗ってさらに多くの人々が金沢を訪れます。彼らの最後のお見送りで印象を損なうことがないように、小さな苦言を呈しておきます。
エラそうなこと言って、ただ食いしん坊なだけなんやけど。
昨日から恒例の湯治に出かけており、先ほど帰ってきたようなわけで、今時分にブログを更新することとなりました。雪見酒の期待があっさりと裏切られたこのたびの温泉行の仔細はいずれ書くとして、今日は気になる言葉使いについて。
イエデン(固定電話)での通話がめっきりと減ったことは以前にも書きました。しかし、仕事の上ではやっぱり電話での通話は欠かせません。職場の新入職員諸君は、新人研修なんかで電話のかけ方受け方、みっちりと仕込まれます。しかし、もちろん研修のお稽古だけでモノになるはずもなく、実地での経験でもって業務上必要なコミュニケーションの手法を習得していくことになります。失敗を繰り返して一人前になっていくのですが、はじめのうちに変なクセを付けるとなかなか直らない。三つ子の魂百までというやつです。新人と言えなくなると、もう関連の研修受けたりはしないので、気がついたときに、まめに指導するしかありません。
そんな基本的な電話術も、携帯電話の普及によってじゃっかん変化してきました。
携帯への発信では固定と違って相手のシチュエーションが分からんもんやから、つながって開口いちばん「今、お電話よろしいでしょうか」がデフォルトになり、今やそれが固定電話にかけたときにも必ず言うようになってきました。
そんなある日、入って日が浅い職員が電話してます。
「もしもし~◯◯さんの携帯電話でよろしかったでしょうか。今、お電話大丈夫ですか~」 (^^;;
ファミレス敬語に続けて私の嫌いな「大丈夫」攻撃、ここでも炸裂です。もし、私がこんな電話受けたらきっと「電話大丈夫かって、別に壊れてないけど」と応じることでしょう。未だそんなチャンスには遭遇してませんが(^^)
本人に自覚がないからやっかいなのです。彼が電話終えてから「君、今何て言てった?」とか注意しつつ、やっぱり新人以外にも「お話し方教室」やった方がいいのかなぁなんて思う今日この頃です。
学生さんや若手職員たちが日頃仲間内で話してる、ほぼ日本語らしきものについてとやかく言うつもりはありません。
「やっば~、マジッすか!?? チョーウケるんですケド」大いに結構。
が、それをビジネスシーンに引きずってきてはいけません。あなたは組織の看板背負って話をしてるんですよ。
先週、ベンチャー事業で成功されたさる方の講演を聴く機会がありました。出版業界からスピンアウトして時代の先端で活躍している様は大いに興味深かったのですが、若いこともあってかいかんせん言葉の誤用が多く、残念に思いました。
のっけから「私は、◯◯といい、……など、現在こういった分野で活躍しています」
さらに、「スゴイよく売れてます」「スッゴイ素敵な人なんです」以前にも書いた、誤「スゴイ」をやたら連発されて、耳障りこの上ない。聴く気が失せていきます。せっかくいいコト話してはるのに「スゴく」もったいないと思いました。
言葉、言語は生き物。時代とともに変わるということは確かにいえるでしょう。いずれこれらの誤用も正しい日本語として受け入れられる日がくるのかも知れません。しかし、正しい、正しくないと言うよりも、聞いて話して気色の悪い語法はやっぱり残ってほしくないなぁ、なんて思ってます。
先週、久しぶりに四国徳島に出張しました。
前回徳島を訪れたのは、もう相当以前になります。今回の出張が決まった際、飛行機の手配をしようとしたところ、時刻表に伊丹‐徳島の便が見当たらない。調べると、もう10年以上前に廃止されたとか。かの明石海峡大橋が開通したことで、利用者が激減したらしい。
大阪‐徳島は直線距離にしてわずか100kmたらず。すぐ近くなのですが、いざ行くとなるとなにぶん間に海があるためなかなかに厄介でした。のんびりフェリーに乗るか、岡山、瀬戸大橋経由ではるかに遠回りするしかなかったのです。そこで時間を惜しむ際に何回か飛行機を利用しました。航行距離が短いので離陸したと思ったらすぐに着陸。時刻表上は30分のフライトですが実際に飛んでる時間は10分ちょっとやったように思います。いつの間にか阪神‐四国が陸続きとなり、今や高速バスがバンバン行き交っています。人の移動も物流も格段に便利になっていることをあらためて感じた次第です。
往路は日が暮れてたのでよく分かりませんでしたが、帰りにあらためて明石大橋眺めてみるとそのスケールのデカさに驚きます。大鳴門橋(左)と比べてみても橋脚の規模がまるで違います。さすが、ぶっちぎりの世界最長。よくこんなもの造ったもんやと、あらためて日本の土木建築技術の凄さを思いました。
さて、徳島には学生時代をともに過ごした仲の良い友人がおり、今回の機会に一献傾けて旧交を温めることにしました。青春時代ともに苦労したなどというと彼に怒られそうです。なにせ彼は私なんかとは違って、努力して大学卒業後すぐに司法試験にパスした本当の俊才なのです。
30年前、忘れもしない昭和60年8月12日の夜、彼と私は吉祥寺の酒場で飲んだくれて騒いでいました。彼は司法試験浪人中、私は卒業後関西に帰って就職した社会人1年生で初めてのお盆休暇を利用して友人たちに会うため上京していたのです。世間はバブル前夜の喧騒に満ちており、今思うと何か起こりそうな蒸し暑い夜でした。
夜もふけて、ヘベレケになった彼と私は彼の自宅に向かうべくタクシーに乗り込みました。するとラジオから流れるのは音楽ではなく、アナウンサーが延々と人の名前を読み上げています。
「う、うんてんしゅさん、なにかあったのれすか」
「う~ん、何だかね、飛行機が落っこちたらしいよ」
酔いも吹っ飛んだ彼と私はその夜、一晩中テレビにかじりついていました。次第に明らかになっていく御巣鷹山の惨状に愕然としたあの夜から、今年の夏で30年になります。彼と飲む際には必ずあの夜のことが話題になるのです。もし友人たちがあのお盆の時期に集まろうという話が無かったら、彼はあの日に徳島に帰省していたかも知れない。お盆の帰省ラッシュの混雑で羽田‐徳島便や新幹線の指定が取れなかったら、123便に搭乗していた可能性もゼロではなかった、と。
先日は、当時の友人のひとりがすでに亡くなったことも彼から聴きました。あっという間に過ぎていった感もありますが、30年はやはり長い。
当時の他の友人たちともまた集まろうや、連絡とってみる、ということで別れました。やはり東京でということになるのでしょう。将来、リニアが走っても大阪‐東京の航路はさすがに廃止されることはないでしょう。しかし、私は飛行機ではなく新幹線で上京することにします。
阪神・淡路のあの日から昨日でちょうど20年経ちました。ついこの間のことのように思えるのですが、あの年に生まれた子らが今年成人したのです。月日の過ぎていくのが何とはやいことか。
あの日を境に、わが国の防災意識はギア・チェンジされたように思います。それまでは、きたるべき東海地震に備えて地震予知技術の開発を叫ぶなど、今思えばどことなく悠長な感がありました。1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災を実体験として知る人はめっきり少なくなり、私たちは9月1日がなぜ防災の日とされているのかを身をもって感じることがなくなっていました。お座なりの防災訓練を毎年繰り返していました。そして関東大震災から実に72年を経た1995年1月17日、それは何の前触れもなくあまりにも突然にやってきたのです。しかもその震源は予想されていたフィリピン海プレートの南海トラフ境界ではなく、大都市圏阪神地域の直下という、これ以上ないほどの想定外の出来事でした。
たったいちどの大災害によって、きわめて多くの人々の人生が大きく変えられてしまいました。何という神の配剤というべきか、ひとたび牙をむいた大自然の脅威の凄まじさを思い知らされた出来事でした。
しかしながら、この災害によってはからずも日本人は、その底知れぬ強さと優しさを改めて世界に知らしめることとなります。地震発生直後の写真を改めて眺めてみると、当時この惨状からの復興には果たしてどれほどの歳月と苦難が必要となるのか、誰もが途方に暮れたあの当時を思いだします。しかし震災直後から行政は持てる渾身の力を振り絞って災害救助と粘り強い支援を続け、その後の復興を見事に達成しました。そして、被災した人たちは不便な避難生活の中にあっても不平不満を発することなく我慢を重ね互いに助け合って、自分ひとりだけやなく皆が一緒になって確実にもとの生活を取り戻していきました。その過程にあって全国から寄せられた支援物資と馳せ参じた延数万人におよぶボランティアの活動は日本人の心の根底に息づく、際限のない利他の精神のありようを鮮やかに示してみせました。
壊滅的な被害を受けた大都会神戸は、ほんの数年の歳月を経て震災前にも増して美しい姿を完全に取り戻しました。この復興スピードを果たして誰が予想したでしょうか。これひとえに強さと優しさを兼ね備えた日本人のすばらしさの為せるところと言わずしてなんとするでしょうか。
そして阪神淡路から16年経った2011年、東日本大震災の試練が再び日本に襲いかかりました。ここでは地震・火災にとどまらず、未曽有の大津波がおしよせ、さらには原子力発電所から放射性物質が拡散するという想像を絶する複合災害となったのです。
しかぁし、ここでも日本と日本人の底力は如何なく発揮されます。復興は実にゆっくりとではありますが着実に進められています。被災者の我慢と、国内外からの物心両面の支援のたまものです。
先の大戦の反省から、長く日本人は自分たちが世界から嫌われているのではという変に自らを卑下した心情を抱いてきたように思います。戦後復興を遂げ経済大国となってからも奢ることなく、絶えず世界の国々への援助を続けてきたのもひとつには贖罪の意識もあったのではないでしょうか。しかし阪神淡路や東日本といった非常時には、はからずも世界の人々のわが国に対しての思いを知ることにもなります。日本と日本国民は自分たちが思う以上に世界中の人たちに、少なくはない尊敬と大いなる親しみの感情を抱いてもらってるのです。
20年の節目というわけではないのですが、先週「自衛消防業務新規講習」というのんを受講してきました。消防法改正で、大きな建物内の事業所には自衛消防組織の設置が義務付けられ、その管理者等にはこの講習を修了したという資格が必要となったのです。2日間ビッシリのハードな講義と実践訓練でした。業務上の必要にかられての参加ではありましたが、知らなかったことも多くて、これからも災害大国日本で生きていくための防災意識の大切さを再認識するいい機会となりました。
今後も大災害が日本を襲うことはわかっています。怠ることなく防災訓練と準備に勤しみ、万一のときには自分たちの強さと優しさを信じ、誇りをもって冷静着実、適正に対応し、引き続き世界中の人々の模範となって進んでいけるようにと思うのです。頑張らねば。