野暮用あって、久しぶりに奈良市に住む伯母宅を訪ねました。奈良市といっても北のはずれ、なだらかな丘陵に田園風景広がる山陵町、別名「津風呂町」というところです。この集落、ちょっとしたドラマがあるのです。
伯母夫婦はその昔、吉野町の津風呂という地区に住んでいました。ところが戦後、国の事業で国中(「くんなか」奈良盆地のこと)の水不足解消のために「吉野川から水引いてきたらええやん、ダム造ろうや、ダム」ってことになりました。いわゆる「吉野川分水」構想です。そして建設場所とされたのが吉野川支流の津風呂川でした。川沿いに住む人たちは移転を余儀なくされたわけです。各戸、散ってしまうのではなく、お寺や神社もひっくるめて集落全体が集団移転でやってきたのが、奈良市の山陵地区で、同じ「津風呂」という町を築き上げたのです。昭和30年代のことでした。
十津川の北海道移転にも似た話です。集落の入り口には記念碑が建てられ、往時の苦労が忍ばれます。書いてみますね。
津風呂町由緒
そもそも津風呂の地名は遠く萬葉集に見る 「津布呂」津振として古くより歌に詠まれた地で南北朝の頃 津風呂筑後守従五位上平朝臣光季入道覚佛によって治水産業を拓かれ 五十三戸 田地十六町歩畑地十一町歩山林二百町歩の自給自足の平和な村であった 然るに 昭和二十一年十津川紀之川綜合開発事業に依る津風呂ダム建設のためこの津風呂部落は水没し 裏面に銘記の二十戸がこの地に集団移住し第二の故郷津風呂町を創設し昭和三十五年四月二十八日 鎮守の春日の森から御神体を奉還し安楽山阿弥陀寺薬師寺を安置し我々は昭和三拾三年から移住を始め爾後汗と涙で町造の大事業に専念した 貢献された対策委員長阪口義雄氏建設委員長森中宇三郎氏開拓農協組合長乾俊一氏等を始め二十戸の家族の一致協力と加うるに土地の交渉工事の協力に専念された山陵町の中田宇之吉氏の功績も忘れることは出来ない 吉野の故郷津風呂湖に湛えられた三三〇〇万㎥の水は大和平野一万町歩の旱害を救うと共に工業用水等奈良県産業振興の為に幾久しく貢献されるであろうことを希うと共に第二の故郷津風呂町が永久に繁栄することを祈念するものである
昭和四拾五年四月二十九日
建設省 津風呂湖開拓農業協同組合
文献並書 津風呂町自治会長 片岡一雄
さて、ご用事済ませて、久々に歩いてみることにしました。この周辺、実は「佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)」のド真ん中に位置してて、やたらでかい古墳がたくさんあるのです。
神功皇后陵
御陵はどこもなんですが、域内非常にキレイです。ゴミなんかもちろん落ちてないし、植栽やなんかも、いつみてもついさっき刈り込んだみたいに整ってます。
宮内庁管理下の神聖なエリアということで、とにかく徹底的に整備されています。その莫大な維持費たるや、いかほどなのか見当もつきません。
成務天皇陵
「御陵」と名がつく古墳はアンタッチャブルです。中にはきっと学問上貴重な史料がゴロゴロしているのに。
調査できれば、それこそ歴史を塗り替えるような大発見がたくさんあるでしょね。邪馬台国がどこにあったかなんて、きっと簡単に分かるはず。でも、宮内庁は許しません。
てくてくと歩いて、平城宮跡までやってきました。
2年前の遷都1300年祭の頃は大賑わいやったそうですが、今では閑散としてます。せんとくんはいずこに?
広い。やたら広い。
忽然と復元された大極殿が淋しそう。
この、ただ広いスペース、どうするのよ? 今は「国営凧揚げ場」として利用されています。豪気な話です。
将来、中央リニア新幹線がきたときに駅を造るのはどうでしょう。あ、しかしこのあたり、掘れば埴輪や木簡なんかがやたら出てくるやろから、ムリか。