考えたことの最近のブログ記事

国民栄誉賞

| コメント(0) | トラックバック(0)

 将棋の羽生さんと囲碁の井山さんに国民栄誉賞を同時に授与することになったそうです。

 羽生さんは史上初の永世七冠、井山さんは史上初の七冠というその世界では前人未到の快挙を達成したということで、受賞は誰しも納得といったところです。

 habu.jpgこの国民栄誉賞は授与の基準が曖昧で時の政権が恣意的に人気取りに利用しているなんて批判が言われてきました。政治が滞って世の中の雰囲気が暗くなったときに、パッと明るい話題を作って少しでも政権批判の矛先をかわそうという思惑が見え隠れするというわけです。だからといって別に時の内閣の人気が上がるわけでもないんですけどね。

 今しも日本では、極悪犯罪国家北朝鮮からのミサイル攻撃に晒されるという、かつてない事態に直面しています。にもかかわらず国会ではその対策を真剣に論じようとせず、ボンクラ野党が相変わらずモリ・カケを叫び続けるお粗末な有様で、政府も政府で、いつまでもそんな野党のたわごとに付き合い、国の安全保障をはじめとして年金・教育といった懸案の重要施策に有効な活路を見い出せずにいます。

 もう少し待てば冬季オリンピックが始まって、日本選手のメダルラッシュでもあれば、一気に明るくなって景気もよくなると思っていたところが、ロシアがドーピング問題で参加しなくなったし、それよりもそもそも分断国家の紛争休戦ライン近くで、オリンピックなんかホントにやれるんやろか?と、開催が近づくにつれて世界中の人々が懸念し始めました。北朝鮮が国境すぐそばの会場狙ってミサイルを撃ってこないと、いったい誰が言えるでしょうか。つまりは、日本国内でも不安と失望が広がりつつあるのです。

 そんな中で、なんとか社会の雰囲気を盛り上げたいと思った政府が「そや、国民栄誉賞や!羽生(ハニュウ)がだめなら羽生(ハブ)でいこ。んで将棋のついでに囲碁でもほらこないだなんかおったやんか」というわけで今回のニコイチ受賞の運びとなったわけですね、きっと。

 さて、この国民栄誉賞、今回は納得の受賞ですが、基準が曖昧なんで過去には「なんで?」というケースがままありました。漫画なら長谷川町子よりも手塚治虫やろとか、寅さんがもらって高倉健や三船敏郎にはなんでないのとか。fukumoto.jpg

 また、ノーベル賞は死んじゃった人はもらえませんが、国民栄誉賞は没後受賞が非常に多い。本人の意向を無視した後の祭りやから「政府の人気取り」なんてことが言われるのです。国民の声をしっかり把握して、資格アリという人には元気なうちに授与してほしいもんです。

 ちなみに野球界では、ホームラン世界記録の王さん、連続出場世界記録の衣笠さんがもらってるのに、なぜに盗塁世界記録の福本豊さんがもらえないのかがかつて話題になりました。当時「パ・リーグやったから」なんて冗談が言われましたが、実は政府は打診したのに福本さんが断ったらしい。曰く「そんなんもろたら、立ちションもでけへんようになる」

 実に福本さんらしくて、よい。

 実際のところは「記録だけやなくて、王さんのように野球人として本当に国民皆から愛される人でないといけない」と思って辞退したんやとか。

 こんな人にこそ、国民栄誉賞あげるべしと思います。

NHK驕り高ぶる

| コメント(0) | トラックバック(0)

 国営有料放送のNHKは受信料やめてスクランブル化すべし、とだいぶ前に書きましたが、このたびNHKの受信契約を強制する放送法が合憲か否かが争われていた裁判で最高裁は「ごーけん」とする判決を出しました。もし仮に違憲判決など出ようもんなら、これまで払った受信料全部返せと日本中で暴動が起きるので、合憲判決は大方の予想どおりでした。とはいえNHK受信料問題に関する初めての最高裁判断、歴史的判決というわけで各紙大騒ぎです。

 NHKbill.jpg判決いわく、テレビが家にあれば受信料を支払わなければならない。これは知る権利に応える公共放送を支えるため、なんですと。

 「NHKが知る権利に応えているから契約は強制でも合憲」とは妙な理屈です。知る権利があれば知らない権利も当然あるわけで、視聴者に知る権利を押し付けて、それを支えるために受信料制度が必要というのは論理矛盾の気がします。

 そもそも契約には当事者間の合意が必要であり、一方的に押し付けられるものではありません。受信契約にしても同様で、放送法の「契約しなければならない」なんて法令条文は普通ではありえない話です。ではなぜNHKだけ契約の強制が許されるのか。放送法は「(NHKは)公共の福祉のために、あまねく日本全国において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組...を行う」としています。つまり、NHKは「豊かで良い」番組やから、国民皆これを視なければならない、視てるんやからそれに対して金を払う義務があると。つまり「視ることを強要」しているのです。

 普通に考えてこんな法律はおかしい。「豊かで良い」番組なんて誰がどのように評価するんでしょか。いいか悪いかなんて1億人の国民ひとりひとり判断が違うわけで、国民すべてにとって「良い」番組なんてありえません。イスラム国やオウム教団は間違いなく悪ですが、そのカルト思考に心酔した変人にとっては教義に沿った犯罪を悪とする報道は「良い」番組とはいえません。ご皇室の様子を伝える報道は、天皇制を認めない共産党員にとっては「良い」放送とは思えないでしょう。人によって違うのです。皆が「良い」と思う放送なんて不可能です。放送法は不可能を求めており、その不可能を前提として受信契約を強制してるのです。

 お金払ってでも視たい人だけが見る。それでいいではないですか。

NHKlog.jpg NHKはスクランブル化しない理由について、公式サイトで次のように説明しています。

 ○ NHKは、広く視聴者に負担していただく受信料を財源とする公共放送として、特定の利益や視聴率に左右されず、社会生活の基本となる確かな情報や、豊かな文化を育む多様な番組を、いつでも、どこでも、誰にでも分けへだてなく提供する役割を担っています。

 スクランブル化すれば「受信料を財源とする」必要はなくなります。受信料を財源としなければ「特定の利益や視聴率に左右されず、社会生活の基本となる確かな情報や、豊かな文化を育む多様な番組を、いつでも、どこでも、誰にでも分けへだてなく提供する役割」など担わなくてすむわけです。本末転倒とはこのことです。

○ 緊急災害時には大幅に番組編成を変更し、正確な情報を迅速に提供するほか、教育番組や福祉番組、古典芸能番組など、視聴率だけでは計ることの出来ない番組も数多く放送しています。

 だから、何故にだれもみたくない番組を金をかけて制作する必要があるのかって話です。「お前のためを思ってこの番組を作ってやったからありがたく思って視なさい」ということですか。徴収した受信料を大多数の視聴者がみたくもない番組の制作に浪費していることを抵抗なく公言する姿勢がそもそもお上意識の権化です。視たい番組は自分で選びます。

○ スクランブルをかけ、受信料を支払わない方に放送番組を視聴できないようにするという方法は一見合理的に見えるが、NHKが担っている役割と矛盾するため、公共放送としては問題があると考えます。

 その「NHKが担っている役割」なんてものがそもそも必要ないのです。放送といえばNHKしかなかった時代にできた放送法は、今や時代にそぐわずただNHKの既得権益を保護するためにしか機能していません。視たい番組は自分で選びます。

○ また、スクランブルを導入した場合、どうしても「よく見られる」番組に偏り、内容が画一化していく懸念があり、結果として、視聴者にとって、番組視聴の選択肢が狭まって、放送法がうたう「健全な民主主義の発達」の上でも問題があると考えます。

20171208_134539842_iOS.jpg  採算のとれる範囲で番組を制作すればええやないですか。視聴者が求めれば自ずと番組の種類は拡がっていき、結果選択肢も増えます。巷間に溢れる民営ペイテレビのチャンネルの多さを知らないのでしょうか。結果的に多くの人が見たい番組を多く作りニーズに応えることが放送局のあるべき姿なのではないでしょうか。視たくもない、したがって視てもいない番組の制作費まで搾取されることがNHKが言う「健全な民主主義の発達」なんでしょうか。さっぱり分からん。

 NHKの価値観、NHKの倫理観、NHKの善悪意識こそが正しい「良い」ものであって、衆愚はただそれに従えばええんよという考えやからこんな斜め上の理屈を堂々と公表できるのです。もうね、これは合憲違憲という話やなくてNHKの在り方そのものを、その解体も含めて真剣に議論すべき時期にきていると思うわけです。

 ところで、新聞各紙今回の判決を伝える中で、もともとNHKとは仲が悪い朝日新聞は、判決要旨とともに大法廷の最高裁判事全員の写真とプロフィルなんか載せてます。「読者のみなさん、受信料合憲の判決出してNHKに味方した裁判官はこいつらですよ~、覚えといてね♡」という意図が感じられます。朝日らしい印象操作で、これはこれでなかなかに興味深い。

お相撲さんたち

| コメント(0) | トラックバック(0)

 はやいもんで今年も12月に突入しました。うわ、年賀状まだ書いてないし、あれもこれもまだできてない。しゃーなし来年まわしっと、いつもどおりの師走の心象です。例によって週末を中心に忘年会ラッシュ、全部で十数件の宴席を粛々とこなしてまいります。がんばれわたしの肝臓。今月はゴルフもコンペとプライベート2回の予定があります。仕事に支障をきたさないよう体調に気をつけていかねば。

sumo1.jpg さて、大相撲が大騒ぎです。暴行疑惑で加害者の日馬富士はもとより、被害者貴乃岩、横綱白鵬、協会理事会、貴乃花親方、それぞれにいろんな動きをしてて、そこに遠くモンゴルから朝青竜や鷲羽山やなんかも大声あげだして、もうなんだかわけ分かりません。

 暴行事件で立件されたわけですから、引退やむなしは当初から言われてて想定どおりの決着なのに、どうもすんなりいってないなという印象です。「物言い」横綱の白鵬は、優勝したもののインタビューで「二人とも土俵にもどすどー、バンザーイ!」とかやって厳重注意されたり、貴乃花親方は協会理事会の事情聴取に応じないし、一部では今や主流となったモンゴル出身力士閥と親方衆や日本人力士たちの確執があるのでは、なんてことも言われてるそうです。どこまでが本当でどこまでがメディアの捏造なのかは分かりませんが、全体像がすっきり見えないことは確かです。

 さて今回の事件、たとえばプロレス、ボクシングなどほかの競技団体の話であったなら、ここまでの騒動にはなりません。なぜにお相撲さんの場合こんなに国民の関心が高いのか。ひとつにはそれだけ人気があるので注目を浴びやすいということがあります。競技として国民に人気があればあるほど、そのプレィヤーは有名税として品行方正な身の振り方が求められるのです。

 しかしそれよりも大きな理由は、大相撲が他の競技とちがって単なるスポーツ、興業ではなく、わが国古来の伝統に則った神事であるという一面があるからやと思います。相撲は五穀豊穣を願って神に奉納するために行われる神聖なパフォーマンスであって、当然のことながら卑怯な行為や八百長などの不正が介在することに国民は本能的な拒否反応を示します。今回のように最高位たる横綱が暴力を振るって非難されるなどもってのほかなのです。

sumo2.jpg その神聖さと日本人が共有できる有益性を有するがゆえに、日本相撲協会は公益財団法人という法人格を取得しています。公益法人でありながらプロ選手を多数かかえ、営利目的の興行を全国規模で開催しているのです。こんな団体ほかにありません。その長い歴史と有益性によって農耕民族日本人の総意として「お相撲ならまあいいか」という認識ができ上がっているからです。

 ところが、その人気が高まるにつれて力士が野球賭博や大麻で捕まったり、今回のように力士同士や民間人に対して暴力振るったりとさまざまな不祥事が頻発するようになりました。中でも2011年に発覚した八百長事件ではどうにも収拾つかなくなり春場所の開催を中止するという前代未聞の事態となりました。その際に叫ばれた角界の綱紀粛正がどうやらまたぞろなおざりにされてきた模様です。これは協会理事会が考えている以上に深刻な事態であると思います。ファンが減って入場料収入が減り、スポンサーの懸賞も減り、タニマチも離れていくといずれ力士の給料も払えなくなるでしょう。相撲協会が税金面でも優遇されて派手に興業が打てるのも、国民多くの総意が結集してそれを求めているからです。ひとたびその信頼を失えば「協会解散」もそんなにありえない事態ともいえません。

 お相撲さんといえば横綱ならずとも強くて優しい正義の味方、人格高尚にして清廉潔白、品行方正というイメージがあります。これはいわば日本人がもとめる人間の理想像なのです。どうか繰り返される不祥事で、このイメージを損なうことのないように願いたいもんです。

独立独歩

| コメント(0) | トラックバック(0)

 スペインのカタルニア州が独立するとかしないとか、したいとかさせないとかでもめてるそうです。州都バルセロナは1992年にオリンピックがあった大きな都市です。14歳の岩崎恭子が200m平泳ぎで金メダルとって「今まで生きてた中で一番幸せ」とのたまったところです。

Catalunya.jpg 最初、国民投票で独立賛成派が90%を占めたとか聞いたんで、そんなら独立したらええやんと素直に思ったところ、どうもそんなに単純な話でもないらしい。

 そもそも投票率が有権者の半分もなかったとかで、州民全体の過半数が独立を支持したものでもないと。独立反対派も大勢いて、先週、州都バルセロナでは反対派の大規模なデモが行われたとか。

 投票結果を受けて州の首相は独立宣言するのかと思いきや、スペイン政府に脅かされて独立するともしないともはっきり表明しないまま、ベルギーに逃げ出して亡命するんちゃうかという話です。なんという腰砕けの無責任。なら、初めからやめときゃええのに。

 国家が独立して国際社会に国として認められるためには、ある程度よその国に承認されることが必要です。フランスやドイツなど欧州の主たる国々やアメリカもスペインに気をつかって承認するつもりはないとかで、この点でもカタルニア独立は厳しそうです。

 思い出されるのはスコットランドが英国からの独立を目指して国民投票やったという一件で、あのときは、独立賛成が少なくて結局ことは成りませんでしたが、もし賛成多かったらすんなり独立認められそうな雰囲気がありました。スコットランドとカタルニア、いったい何が違うんでしょか。願わくばチェチェンやコソボのように、武力衝突から紛争に発展することなどないように。

 以前にヨーロッパ行ったときに、ベルギーは民族も言葉も違う2つの地域が連邦制で国を成していると知りました。カナダのフランス語圏であるケベック州もいっとき独立しよっかなんて動きがあったそうです。ちょっと意味合いが違うけど台湾は独立してたのにいつのまにか中国の一部にされちゃいました。megami.jpg

 国とは何かという話になります。こんにち国際法上では、「領域」「国民」「権力(政府)」が国家が成立する三要素とされています。大昔読んだ星新一のショートショートに「マイ国家」という作品がありました。ある男がマイ・ホーム、マイ・カーよろしく自分ちをマイ国家として独立を宣言する話です。狭いけどわが家という領土があり、ひとりやけど国民がいて、家ん中では自分が権力者として統治しているので、国としての要件を満たしているというわけです。オチは忘れましたが、今思えば星新一独自の手法で国家論を展開していたと言えます。

 まず起こりえないことですが、仮に日本で同じことが起こったらどうなるでしょうか。例えば基地問題に業を煮やした沖縄県がブチ切れて「独立したど」と宣言したら、おそらく中国はすぐさま国として承認するでしょう。かつての琉球王国の時代さながらに中国に朝貢せよというわけです。当然尖閣諸島は中国に割譲され、沖縄を属国と従えた共産中国は宿願の太平洋進出が実現し、地球を米国と二分する中華帝国主義の覇権が確立します。こんなことがあってはいけない。しかし、「あってはいけない」と考えるのは沖縄県民以外の日本人であって、当の沖縄の人たちがどう考えるかによって可能性としてはまったくゼロでもないところが面白い。

 そういえば星新一のS.S.は小中学校時代大好きでほぼすべて読み尽くしましたが、その後買い集めた文庫本を姪っ子にすべて譲渡したため近年は読む機会なく忘れてました。今回の独立騒ぎで思いだしたのを機に、また読んでみよかな。 

逢魔が刻の風情

| コメント(0) | トラックバック(0)

 今日は総選挙投票日ですが、台風直撃でえらいことになってます。審判の日に嵐に見舞われるとは、何かを暗示しているのでしょうか。昨日出かけたついでに期日前投票を済ませてるんで今日はいちにち自宅でひっそりと過ごすことにします。昨日の投票所はいつになく長蛇の列となっていました。台風で風雨が強くなる前に済ませたいという思いは皆さん同じやったわけで、私を含めて長らく待たされた人達はもとより係の人も慣れない対応に追われてて気の毒ではありました。やっぱり先週のエントリーで書いたように「投票日」は「投票期間」に変えて、混雑を分散するべきです。

 さて、どんどん秋が深まっていきます。秋はなぜか淋しい。夕暮れどきは特に淋しい、またはなんとも侘びしいえもいわれぬ風情があります。清少納言が枕草子で「秋はなんつっても夕暮れがええやんね!?」と書いた時代から変わらない、日本人の感性です。

 susukihara.jpg昔の夕暮れ時は現代よりもはるかに暗くて、黄昏(たそがれ)どきは「誰そ彼」どき、つまり夕闇にまぎれて誰だか分からなくなる時間帯という意味で、これに対して明け方の暗さを同様に「彼は誰(かわたれ)」どきと言います。美しい日本語です。しかし、そんな風に暗くて辺りが見えにくくなる頃合いには魔性のものが現れるという意味で「逢魔が刻(おうまがとき)」ともいうそうです。昔の人は、夕暮れには単に淋しいのみならず、神秘的な風情をも感じていたわけです。

 ところで、古来日本人は春秋優劣論でもって「春と秋どっちがより風情があるか」ということを考え続けてきました。んなもん、個人の好き好きでどっちでもええやんとは思うものの、春秋の優劣を語れることが文化人の嗜みとされてきたとか。古くは額田王の歌から紫式部の源氏物語にも春秋の優劣を問うくだりがあったり、ずっと和歌や俳句、文学のテーマとしても扱われてきています。

 地方によって違いはあるものの四季のはっきりした気候の日本列島において、その四季の廻りに自然の営み、神の意思を風情として感じ、生活の一部、人生の一部として取り込んできた農耕民族ならではの季節観です。その中でも、秋の収穫が終わり、暗くて寒い厳しい冬に向かう時期にはいや増して感情が募り本能的に淋しさを感じるんやと思います。

 秋の夕暮れにを詠んだ和歌としては超有名、百人一首にも入った良暹法師のBasho.jpg

     寂しさに宿を立ち出でて眺むれば

          いづこも同じ秋の夕暮れ

                       「後拾遺集」

 わかりやすくて、よい。

 現代語訳すると

「秋の夕暮れは淋しいなあ。もうムリ、わが家でボッチとか我慢できひん。そや、ちょっと外に出てみたろ。何か楽しいことあるかも。というわけで家出てきて辺り見渡してみてんけど、誰もいてへんしなーんもないやんか。どこ見ても同じよな寂しい景色ばっかしやったわ。淋しいなあ...。」

 俳句では、鉄板の松尾芭蕉

     秋深きとなりはなにをする人ぞ    「笈日記」

 芭蕉の辞世句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」に至るちょっと前に詠んだんやそうです。

 訳すると

「秋の夕暮れは淋しいなあ。お、隣の家は灯りがついてて人の声が聞こえてきたやんか。ええなあ、お話する相手がいてて。いったい何してはるんやろ。淋しいなあ...。」

 どちらも秋の底なしの淋しさとそれに堪えかねる人の感情の脆さを見事に表してます。楽しくて明るいものよりも、ネガティブなシチュエイションにこそ風情を感じる。これぞ日本人ならではの繊細な感性といえます。したがって春秋優劣論争でも古来、秋説が有力やとか。どっちかというと私も賛成です。

前の5件 55  56  57  58  59  60  61  62  63  64  65

WELCOME

CALENDAR

PROFILE

IMG_0227_2.jpgのサムネール画像のサムネール画像

katsuhiko

男 

血はO型

奈良県出身大阪府在住のサラリーマン

生まれてから約半世紀たちました。

お休みの日は、野山を歩くことがあります。

雨の日と夜中はクラシック音楽聴いてます。

カラオケはアニソンから軍歌まで1000曲以上歌えます

月別 アーカイブ