巨星墜つ

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 先週、衝撃の訃報が飛び込んできました。

 人間国宝の落語家、桂米朝さん逝く。各紙一面トップです。IMG_3455.jpg

 いうまでもなく、上方落語界の第一人者、その復興の恩人にして最重鎮であられました。

 わたしにとっての米朝さんは、愛してやまない桂枝雀さんのお師匠さんであって、枝雀さんを世に送り出してくれた恩人という位置づけです。いやが上にも超リスペクトですよ。枝雀さんがキリストなら米朝師匠は聖母マリアといったところでしょうか。

 米朝師匠がおられなかったら、戦後の上方落語は衰退し、ひょっとしたら消滅していたかも知れません。それを東京の落語を凌駕する至高の芸域に高めた米朝師匠の存在は、上方文化の象徴の名にふさわしいものでした。今や吉本新喜劇によって全国区となった関西弁ではありますが、米朝師匠の噺は、彼らの攻撃的で耳障りな口調とは対極のソフトでストイックな正統派の上方弁(船場ことば)で、実に品格があった。その高座には今のお笑いのように笑わそう笑わそうという衒いが感じられない、しかしどんどん引き込まれていき気がつくと爆笑している。こうあるべきというお手本のような落語でした。

beicho1.jpg 落語家として米朝師匠を超えたのは枝雀さんだけやと思います。これは個人的な独断と偏見であって異論は多々あるでしょう。現に生前の枝雀さん自身が、師匠と比較された批評に対して「わたし、そんなとこ目指してませんのでね、必要なかたはどうぞそっちの方へ」とコメントしておられました。まさにそのとおりで、枝雀さんは米朝師匠直伝の芸を超えたかたちで人を笑わせる芸風を開拓したわけで、芸風の比較など意味がないんです。落語に関しては枝雀の前に枝雀なし、枝雀の後に枝雀なし。ナニワの爆笑王桂枝雀こそ空前にして絶後という思いは揺るぎません。枝雀さんについてはいずれゆっくりと書く折があろうと思います。

 話、逸れました。米朝師匠です。

 師匠は自ら古い上方の噺を次々に掘り起こして復活させ、戦後消えかけた上方落語の灯を再び大きく発展させこんにちの隆盛に導きました。江戸時代から明治、大正期の上方の風俗など、単語も含めて今では何のことか分からないことも多い。それを、噺の冒頭またはストーリーの中で分かりやすく教えてくれながら噺をすすめることがよくありました。そのくだりがまったく解説ぽくなくて、実に自然に聴衆をその時代へ連れて行ってくれる。落語は単なる「笑わすスピーチ」ではなくて、きわめて高度な芸であることが実感できる瞬間です。しかも至高の芸などと肩ひじ張らずに楽しませる。いにしえから連綿と築き上げてきた伝統のなせる技です。広範な日本文化の中でも究極の話芸と言っていいでしょう。BEICHO.jpg

 そんな素晴らしい伝統を今に伝え、また多くの後進を育ててきた桂米朝師匠の偉業をあらためてすごいと思い、今はただただ残念です。

 というのも、枝雀さんが夭折し、今また米朝師匠なきあと、日本文化の粋、上方落語の伝統とテクニックを受け継ぎ後世に伝える逸材がいまだ出ないからなのです。落語家に弟子入りしながらまともに落語を勉強せず、単なるTVタレントとしての活路を見出すあまたの下卑た芸人を眺めるにつれて、暗澹たる気持ちになります。傑物出でよと叫ばずにいられません。

 またひとつ、昭和が遠くなりました。

 米朝師匠が復活させた噺のひとつにして稀代の大ネタ「地獄八景亡者戯」で、地獄で寄席見物をする亡者のやりとりに
「桂米朝という看板が上がっとるけど、米朝はまだ死んでへんさかい、こっちには来てへんのやないか」
「よう見てみい。脇に小そう『近日来演』て書いてあるやろ」
というくだりがあります。師匠、今時分、ゆっくりと寄席に向かって歩いておられることでしょう。そこでは先に着いた枝雀さんが待ってるんでしょね。向こうの米朝一門会は豪華な顔ぶれでうらやましいなあ。いずれわたしも寄せてもらいます。そのときまでどうかごきげんよろしゅうに。

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katsuhiko

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