今日は総選挙投票日ですが、台風直撃でえらいことになってます。審判の日に嵐に見舞われるとは、何かを暗示しているのでしょうか。昨日出かけたついでに期日前投票を済ませてるんで今日はいちにち自宅でひっそりと過ごすことにします。昨日の投票所はいつになく長蛇の列となっていました。台風で風雨が強くなる前に済ませたいという思いは皆さん同じやったわけで、私を含めて長らく待たされた人達はもとより係の人も慣れない対応に追われてて気の毒ではありました。やっぱり先週のエントリーで書いたように「投票日」は「投票期間」に変えて、混雑を分散するべきです。
さて、どんどん秋が深まっていきます。秋はなぜか淋しい。夕暮れどきは特に淋しい、またはなんとも侘びしいえもいわれぬ風情があります。清少納言が枕草子で「秋はなんつっても夕暮れがええやんね!?」と書いた時代から変わらない、日本人の感性です。
昔の夕暮れ時は現代よりもはるかに暗くて、黄昏(たそがれ)どきは「誰そ彼」どき、つまり夕闇にまぎれて誰だか分からなくなる時間帯という意味で、これに対して明け方の暗さを同様に「彼は誰(かわたれ)」どきと言います。美しい日本語です。しかし、そんな風に暗くて辺りが見えにくくなる頃合いには魔性のものが現れるという意味で「逢魔が刻(おうまがとき)」ともいうそうです。昔の人は、夕暮れには単に淋しいのみならず、神秘的な風情をも感じていたわけです。
ところで、古来日本人は春秋優劣論でもって「春と秋どっちがより風情があるか」ということを考え続けてきました。んなもん、個人の好き好きでどっちでもええやんとは思うものの、春秋の優劣を語れることが文化人の嗜みとされてきたとか。古くは額田王の歌から紫式部の源氏物語にも春秋の優劣を問うくだりがあったり、ずっと和歌や俳句、文学のテーマとしても扱われてきています。
地方によって違いはあるものの四季のはっきりした気候の日本列島において、その四季の廻りに自然の営み、神の意思を風情として感じ、生活の一部、人生の一部として取り込んできた農耕民族ならではの季節観です。その中でも、秋の収穫が終わり、暗くて寒い厳しい冬に向かう時期にはいや増して感情が募り本能的に淋しさを感じるんやと思います。
秋の夕暮れにを詠んだ和歌としては超有名、百人一首にも入った良暹法師の
寂しさに宿を立ち出でて眺むれば
いづこも同じ秋の夕暮れ
「後拾遺集」
わかりやすくて、よい。
現代語訳すると
「秋の夕暮れは淋しいなあ。もうムリ、わが家でボッチとか我慢できひん。そや、ちょっと外に出てみたろ。何か楽しいことあるかも。というわけで家出てきて辺り見渡してみてんけど、誰もいてへんしなーんもないやんか。どこ見ても同じよな寂しい景色ばっかしやったわ。淋しいなあ...。」
俳句では、鉄板の松尾芭蕉
秋深きとなりはなにをする人ぞ 「笈日記」
芭蕉の辞世句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」に至るちょっと前に詠んだんやそうです。
訳すると
「秋の夕暮れは淋しいなあ。お、隣の家は灯りがついてて人の声が聞こえてきたやんか。ええなあ、お話する相手がいてて。いったい何してはるんやろ。淋しいなあ...。」
どちらも秋の底なしの淋しさとそれに堪えかねる人の感情の脆さを見事に表してます。楽しくて明るいものよりも、ネガティブなシチュエイションにこそ風情を感じる。これぞ日本人ならではの繊細な感性といえます。したがって春秋優劣論争でも古来、秋説が有力やとか。どっちかというと私も賛成です。
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