一昨日やったか「行ってきま~す」と出かけると、自宅マンションの前で背中をコツンと突かれたのです。
「?」振り返ると1匹のセミが「ジジジ~」と鳴きながらすぐそばの木立に飛んでいきました。前をよく見ずに飛んでいた粗忽セミに体当たりを喰らわされたわけです。幸いオシッコはかけられなかった様子。
その樹ははセミにとって居心地が良いらしく、夥しい数のクマゼミが群れています。まぁ、地球上にこれほど騒々しい虫はほかにいないでしょう。その鳴き声たるや、すぐそばで並んでいても話し声が聞きづらいほどの轟音です。最寄り駅への途中にある公園の並木にしても同様です。耳が痛くなるほどの大合唱。
しかし何故か「うるさい」とは感じません。大音響ではあるけれども、耳をふさぎたいとは思わない。これがクルマの騒音であったり、下手なカラオケ聞かされたときなんかは、神経を逆撫でするような不快感に耐えられなくなるのに。不思議です。
多分、われわれ人類が地球上に現れたときすでに、セミたちは先達として樹に陣取って鳴き声をあげていたからでしょう。つまり自然の音やからです。滝壺の轟音がさほど気に障らないのと同じ理屈やと勝手に理解しています。
さらに昨日、仕事の帰り道。職場の隣の城北公園内の舗道歩いてると、前から来るおばさんが騒々しい。手にセミを持って楽しそう。
「捕まえてん♪。わたしに捕まるドンくさいセミやわ~ケラケラ。やろか?」
「結構です(^^;)」
見ると桜の広場の地面には、いたるところに羽化のとき這い出てきた穴が空いてます。
10年近くも地中で育ち、羽化して長くて10日とかいわれてます。実際はも少し長くて1カ月以上飛び回る奴もいるとか。それにしたって一生の大半地中です。子供の頃はよく裏山でセミ採りしたもんですが、思えば可哀想な話でした。そいやアメリカの素数ゼミはきっちり13年か17年で大量発生し、その想像を絶する個体数を種保存のための武器としているとか。真っ暗な地中でいったいどやって正確な年月数えるのでしょうか。大自然の驚異ですよね。
セミに限らず昆虫たちは本能に従ってのみ動きます。どんなことがあっても遺伝子の設計図に書かれた以外の行動はしません。「決められたとおりの一生なんてまっぴらだ!」などと叫んで仲間とは別行動して旅に出たり、強いモノに戦いを挑んだり、新しい発想を世に問うたりといった冒険はしない、できない。生き方を選択するチャンスがないので悩む必要がない。これまで地上に現れた数え切れないセミの1匹1匹はそれぞれに幸せを満喫して天寿を全うしていったことでしょう。
かたやわれわれ人間は、行動の選択で悩むことを生命活動の基本に据えており、生き方の幅に臨んで悩むことで、ある種の生き甲斐と幸福を手に入れ一生を送っていきます。日々の行動のひとつひとつが選択の結果です。成功すればいいのですが当然間違うことも多く、その振幅こそが人である所以なのです。セミと違って悩むことができる幸せがあるのやなあと、背中突かれてふと思いました。
夏の風物詩。青空背景にヒマワリ、BGM蝉の声。

近鉄吉野駅前から七曲がりと呼ばれるつづら折りの道を上り切ると、尾根に沿って点在する数多くの寺社をつつみこむように旅館や土産物店、飲食店が軒を連ねています。幼い頃から幾度となく登ってきた馴染み深い街並みです。花見シーズンは大変な人出で、通りを歩いていても満員電車なみの混雑なのですが、この時期はひとかげもまばらで散策にはちょうどいい。吉野山のシンボル、蔵王堂がある金峰山寺に立ち寄ると、若い外国人女性4人のグループがきゃあきゃあ、歓声が境内に響き渡ってます。
早速境内に入ると右手の山側にお社が鎮座しています。3棟連なったかたちのちょっと変わった造りの堂々たる社殿です。境内の雰囲気が奈良市内など平地にある多くの神社と少し違います。平地の大きな神社は、なんというかデラックスな感じで親しみやすい、そんな感じがします。一方、周囲を深い樹叢で囲まれた山中のこのような神社はどうも近寄りがたいというか、畏れをひときわ感じるのです。
先々週、フェスティバルホールでのクラシックのコンサートが仕事都合で行けなかったのに続いて、先週はチケット買ってた甲子園球場でのG戦が雨で流れてしまいました。ついてません。