自宅マンション植え込みのアジサイも勢いが衰え、梅雨もそろそろ終盤のクライマックスを迎え、集中豪雨の懸念が高まる昨今、今日は参議院議員選挙の投票日です。ブログの更新済んだら出かけようと思ってます。室温はすでにして30度を超えており、今のところ雨は降ってませんがこの猛暑は投票率にもいささか影響しそうです。
さて、昨日新聞のテレビ欄に、民放のドラマ枠で「時をかける少女」が始まったとか出てました。
筒井康隆の有名SF小説で何度も映画化ドラマ化されてて、朝日新聞も「もはや演目化した」とか書いてました。うまいこと言う。つまり、歌舞伎や落語とおんなじで、設定やストーリーは観る前から誰もがよく知ってるけども、演出や演技を楽しむために観るのだと。忠臣蔵みたいなもんです。映画でいえば「伊豆の踊子」や「青い山脈」に匹敵する、国民的SFドラマになったということか。異議なし。
私が初めて観たのはもう半世紀近く前の小学5年生の正月、NHKの連続ドラマでした。いまや「チャンネル争い」なんて言葉は死語と化してますが、ビデオデッキなどなかった当時、ひとつしかないテレビの番組を巡って家族内で熾烈な争いが日夜くりひろげられてました。しかし、穏やかなお正月の昼時、家族の意見が一致し、お節料理を食べながらそろってこのドラマを観たことを覚えています。
原作を読んだのは中学生になってからと記憶しています。続編とともに今も書架に収まってます。純真な少年時代、タイムトラベルというSFの定番素材に思いをはせたもんです。
このタイムマシン、実現できるのかという話になると、難しい理屈は分かりませんが、なんしか「ムリ」ということらしい。かつてSFの世界でしか存在することがなかった携帯電話や宇宙ステーションや惑星探査などが次々と実現する現代にあっても、タイムトラベル術だけはどうにも不可能ということのようです。
そもそも人間が支配するこの世の中は、時間は一定速度で一定の方向にのみ進み、逆行や跳躍はできないことを前提に成り立っています。仮にタイムトラベルできる人が現れたりすると、著しい不公平が生じます。透明人間と同様に、もしそんな特技が自分に備わったら、あんなこともできるし、こんなこともできるし、ドラえもんの力を借りずとも労せずして大金持ちになる方法がたくさん思いつきます。これぞまさに空想の楽しみですよね。ただし、その際には「自分だけが」その技能を使える場合という前提がいります。みんながみんな等しくタイムトラベルできるとなるともはやメリットはありません。
なぜタイムマシンは実現できないのか。科学的な理屈なんて到底理解できませんから、文系人間なりに社会科学的側面から理由を考えると「そんなことが実現すると、世の中のルールの根底が壊れてしまう。従って実現することはできない」ということになります。「済んだことは仕方がない」から今の世の中は成り立っているのです。
H.G.ウェルズが「タイムマシン」を世に問い、かつては、いずれ時間移動が実現すると思われていた時代がありました。科学技術の進歩は夢を実現する一方で、それと同じくらい夢を壊していきます。永久機関がいい例です。
しかし、ほんの100年前、大阪-東京間を日帰りするなど狂人の戯言だったのに今や宇宙旅行が珍しくなくなってます。いずれは、最先端の科学技術によって真理とされている物理法則を根底から覆すニュータイプが現れるかもしれません。彼らは時間の移動がごく当然のインフラとして存在する社会を築いていきます。そうなったら果たして何が起こるのか。社会秩序は維持できるのか。私の貧弱な脳ミソではまったく想像つきません。恐ろしい。
ごく普通のオヤジとしては、やはり時の流れに身をまかせ、逆らうことなど考えない現行人類でありたいと思います。
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