2013年11月アーカイブ

看護師さんのこと

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 2010E2028.jpg今日、あるシンポジウムに行ってきました。

 近年、社会の急激な高齢化を反映して、高等教育界もどんどんと医療・福祉系の充実に重きをおいており、この傾向は一向に変化なくしばらく続きそうです。800校に迫る勢いで増え続けるわが国の大学ですが、最近の新設校、新設学部・学科は、医療・福祉系学部が圧倒的に多くを占めています。「バスに乗り遅れるな」状態で次から次へと新設が続いており、競争過多の様相ではと思うのですが、この情況はまだまだ続きそうです。

 とくに看護学部の伸びはすさまじい。右肩上がりで増え続けています。かつて看護師さんになりたい人は、短大や専門学校に進学して国家試験に挑んだものでした。 「准看護婦」 なんて制度もありました。しかし、資質の高い看護師を求める社会情勢に応えるかたちで四年生大学が看護師の養成に参入しはじめ、一方それにつれて入学志願者も急激に増加しました。国が看護系大学の整備指針を出してからかれこれ20年になりますが、この間に看護学部を設置する学校数はほぼ20倍に増え、入学定員は実に30倍以上に増えてます。それほど看護師は不足しているということです。おりしも企業等への就職情況は超氷河期といわれるほどの厳しい情況にあるにもかあかわらず、看護学部の志願者はどんどん増加しています。

 そんな中でわが摂南大学も、薬学部と同じキャンパスに看護学部を設置して2年が経とうとしています。学部棟には学生も増えて活気がでてきました。なんて、知った風に言ってますが、実は、学部があるキャンパスに足を運ぶことはほとんどないのです。義理を欠いてるなぁと思っていた矢先、今日、「開設1周年記念シンポジウム」なるイベントが開催されたので、よろこびいさんで行ってきたという次第です。

 会場は超満員。大学関係者、看護学部の学生に加えて進学を目指す高校生の姿もあり、学部の順調な成長を嬉しく思いました。

 基調講演は看護師出身で看護学専攻の東大の教授です。ご自身の経験の中で優れた研究成果を上げ、最前線で看護学の発展に寄与しているすごい先生です。近年の看護師さんのお仕事はきわめて高度化されており、高度な看護研究と高い専門性を有する看護師の業務遂行が現代の医療には欠かせないという主旨のお話でした。

 人の幸せにとって医学の進歩はもとより大切ですが、加えて患者に対するトータルケアの領域の発展が必要なのです。現在の医療はチーム医療です。お医者の先生だけでは医療は成り立ちません。看護師、薬剤師、療法士、またカウンセラーなど、多分野の医療スタッフがそれぞれの専門領域で高度なパフォーマンスを発揮してはじめて医療は成り立つのやということをあらためて感じました。

 近年のわが国の少子高齢化の進行は、およそ日本人がその歴史において経験したことがない事態です。年齢構成がどんどん上に向かって推移し、お年寄りが増えるに従って、ケアが必要な場面が増えていきます。そんな中、ひとの幸せというものを思う上で、医療はどうあるべきかということをしみじみ考えたいちにちでした。

放たれた虎

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PB024079.jpg 吉野山ウロウロの続きです。

 西行庵をあとにし、青根ケ峰に登り奥千本一帯をぐるっとひと周りした後、バスで登ってきたドライブウェイではなく、いまにも崩れそうな細い林道をてくてく下っていきます。路面に丸っこいシカのフンがたくさん転がってます。

 夏にお参りした吉野水分神社の傍らを過ぎ、上千本まで下りたところでメインストリートを逸れて、喜佐谷から宮田遺跡を目指しました。

 いちにちの行程を大っきく言うと、馬の背状に突き出した吉野山の尾根を先端から真っ直ぐ登って左に下りるかたちになります。降りて行く小径はハイキングコースとして整備されてます。森の中を「象の小川」という渓流に沿って続いており、その昔は吉野と伊勢を繋ぐ要路やったとか。この小川が吉野川に注ぐところに宮滝の遺跡はあります。

 吉野山は日本PB024084.jpgの古代史と南北朝の中世史で歴史の舞台となりました。中世のヒーロー後醍醐天皇の活躍というかやんちゃぶりは、足利尊氏とからめてよく小説、ドラマで描かれてきました。一方、古代の方はあまり題材にされてないように思います。壬申の乱なんて古代史上最大の戦乱、大スペクタクルなんやから、大河ドラマの題材としてはもってこいやと思うのですが、未だ企画されません。黒岩重吾の「天の川の太陽」とか恰好の原作やと思うけどなぁ。やっぱりよく言われているように国営放送としては天皇のご先祖様を主人公にすることはタブーなんでしょうか。

 壬申の乱は大海女皇子と大友皇子の皇位継承をめぐる大げんかです。天智天皇10年(671年)、死期を悟った天智天皇が弟の大海女皇子を呼んで「オレのあと継いで即位してね」 と頼んだところ、大海女さんは 「今即位なんかしたら、大友皇子を担ぐ現大王派の連中に、そっこー殺されちゃうやん。じょーだんやないわい」 とすぐにこれを断り、出家・断髪して吉野へすたこら。IMG_1112.jpg

 これを天智帝が許したってんで、時の都・近江大津宮の人たちびっくりして 「大海女、逃がしちゃったの!? んなことしたら虎に羽着けて放したよなもんやんか」 とか噂し、これがその年の流行語大賞を受賞したたらしい。

 都人たちの懸念は現実のものとなり、翌年大海女は吉野を脱出して美濃までまわって一気に挙兵。琵琶湖の東岸で大友皇子軍をさんざ蹴散らして都に攻め込みます。破れた大友皇子はあえなく自殺。大海女皇子は飛鳥に戻って即位します(天武天皇)。天武帝、もともと統治能力には長けており、天皇として日本の政治機構、宗教、歴史、文化の原型をいっきに築いていき、その事業は奥さん(持統天皇)へと引き継がれていくのです。白鳳文化が一気に花開いた時代です。

 宮滝に向かう象の小径が舗装道路に合流し、さらに少し下ったところ谷あいに「桜木神社」というわりと大きな神社が忽然と現れました。案内の看板によると、大海女さん、近江から引きこもってきたとはいえ大友派に命を狙われていることに変わりはなく、あるときここに隠れてあやうく難を逃れたことがあったとか。で、以来、この神社を大事に奉り、今に至るということらしい。お参りしてみると、お社は朱塗りも鮮やかでわりと新しい感じがしましたが、境内に立つ杉の巨木が歴史を感じさせます。誰もいない。ひっそりとしています。傍らに大海女皇子に因んだ碑が建ってます。PB130122.jpg

 さらに少し下ると目的地、宮滝遺跡が見えてきました。吉野川は宮滝をさかいにしてその表情を一変させます。上流は大きな岩がごろごろした渓流、宮滝を過ぎると川幅が徐々に広がり大河の様相を呈していきます。遺跡付近はところどころ薄緑色に透き通った水をたたえた淀となっています。これほどの大河でこれほどの透明度があるところはほかにみたことがありません。世界有数の降水量を誇る大台ヶ原を源流とし天然の浄水器みたいな森の中を一気に流れ下りてきた清流なればこその景観です。縄文の太古から人が居住し、古代には朝廷の吉野離宮が営まれ、万葉歌人の山部赤人が「み吉野の象山の際の木末にはここだも騒ぐ鳥の声かも」と詠んだその閑かさのままに現代に至る空間です。

 あとはバスに乗って駅へと向かうだけ。再び現代文明の中へと引き戻される接点です。今日の漂泊はここまで。

 深まりゆく秋の気配をいっぱいに感じながら、吉野を拠点として権謀術数うずまく政争を勝ち抜いた、古代のスーパーヒーローに思いをいたしたいちにちでした。 

漂泊への誘い

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PB024031.jpg 前回、宇陀松山と歌人柿本人麻呂のことを書きましたが、その前日、実は吉野山に登ってきたのです。

 故郷に近い吉野は馴染み深いところです。人はそれぞれ故郷というと何かうまく説明できない親しみや畏怖の念、感謝の思いやなんかを感じると思います。たとえそれが日本中どこであっても、その人にとって超特別な空間であることは間違いないでしょう。わたしの場合は生まれ育った土地が奈良、吉野という、実はそれぞれ世界遺産に選定されるほどの有名なエリアであったわけですが、ふるさとという意味では他の人となんら変わりはありません。両親はじめ親戚・縁者もたくさん住んでるし、多くの幼なじみや友人もいます。年に何回かの帰省はやはり楽しいもんです。

 そんな故郷にほど近い吉野山ではありますが、最奥部のいわゆる「奥千本」といわれる一帯、実はこれまで行ったことなかったので、所用あって実家に帰るついでに訪れてみたという次第です。今年の夏、同様に用事ができて実家に帰った際に上千本に吉野水分神社を訪ねたのに続いての吉野山ハイキングとなりました。

 今回は時間を短縮し、最深部の奥千本に至るまでの道はバスを利用しました。奥千本バス停に降り立ち、まず金峯神社に参詣してから目指す西行庵に向けて出発。休日とはいえ紅葉には若干早い霜月初旬ですが、同じようなハイカーがチラホラ。外国人のグループも。中でも、ひとりで歩いている若い女性が目立ちます。わたしのような親父だけでなく吉野の魅力は万人にうったえるものがあるということでしょう。

 細い山道を辿って行くにつれて、あたりは山奥の静寂につつまれていきます。静かさが襲ってくるような感覚を覚えます。こんなのは久しぶり。都会で感じる静かさ、たとえば深夜にひとり部屋に居る時の静かさとはまったく違う、しいてたとえれば雪が降り積もった朝の情況に似ています。街中にくらべて人工的な音を発するものが圧倒的に少ない空間が拡がるとこんな雰囲気になるのでしょうね。「静かさ」ではなく「閑かさ」がピッタリとはまります。森林浴といえば樹木が発散する何とかいう化学物質の効果が人体に作用するそうですが、そんなものなくても、日常あり得ないこの閑かさの中に身を置くだけで心身が癒されていく気がします。

 杉の林を抜けて行きます。名高い吉野杉の美林です。見上げると一本一本がどこまでも真っ直ぐに天を指しています。風雪の妨げもあるやろうに、なんと見事に伸びるもんやと感心します。これもまた自然の凄いチカラか。などと考えてるうちに、西行庵にたどり着きました。PB024041.jpg

 平安末期から鎌倉時代、西行は20代で出家して心のおもむくまま諸国を巡る漂泊の旅に出て、ときにあちこちに草庵を結び、多くの和歌を残したといいます。「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んだそのとおりに、73歳の春、入寂したとか。放浪の人生、あくせくした現代人からすると何とも羨ましい限りの生きざまではありませんか。平安のスナフキン。是非ともあやかりたいもんです。

 けど、いったいどやって食べてたんやろ、とか考える時点で、わたしはもう漂泊の歌人にはきっとなれないのでしょう(^^)

 この小さな小屋、西行の庵とされてますが、まさかホントに西行の時代からそのままここにあるはずがないのであって、おそらく江戸時代か明治期か、はたまた戦前戦後かわかりませんが後年になって造られたもんでしょう。傍らに立つ看板にはそのあたりの説明はありません。しかし、かつて月と花をこよなく愛でる西行という風流歌人が森の深奥でこういうわび住まいをしていた、というイメージを現すものとして大いに価値があると思います。

 前に立つ一本のモミジの樹から、庵に向かって枝が一本伸びていました。おそらく今頃はこの枝が真っ赤に染まり庵の風情もいや増して、それこそ絵画のごとく観る人を魅了していることでしょう。見上げると周囲の山々も一面の紅葉に彩られ、桜の頃に劣らぬ絶景を呈しているはずです。ただ、そのぶん訪れる人も数十倍に増えているわけで、それでも庵の谷のあの閑かさは感じられるのでしょうか。

虹と人麻呂の頃

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PA203991.jpg 今日は雨降りです。文化の日は確か晴れが多いいわゆる「特異日」やったはずですが、連休なか日に無情の雨という天気予報てきちゅう。昨日のハイキングの疲れを癒す完全休養日となりました。

 今日は、昨日のハイキングではなく、先々週のイベントのこと書きます。宇陀市、宇陀松山を歩いてきました。

 奈良検定体験学習「榛原と大宇陀・阿騎野コース」というイベントに参加したのです。

 来年、奈良検定受検予定なのですが、なんと1級受検にあたっては奈良商工会議所主催の「体験学習プログラム」に少なくとも1回参加することが条件となっているのです。県内の名所旧跡を訪ねるものや伝統工芸を体験するもの、また、お祭りに参加して見学するものなど全部で20件以上が企画されてます。それぞれがなんとも楽しそうで、ひとつといわずいっぱい参加したい。実際、そんな人も多いのです。

 そのうちの2コース「川上村源流の森を歩く」というハイキングと今回の大宇陀コースに申し込んだところ、川上村の方は台風18号の接近であえなく中止となり、結局今回1コースのみの参加となりました。しかし、これで奈良検定1級が受検できることとなった次第です。

 ところがこの日も発達した低気圧の影響で朝から土砂降りという有様で、川上村といい、どうも悪天候にたたられています。一日中傘をさしての宇陀松山散策となりました。

 「宇陀市」は宇陀郡の榛原町、大宇陀町、菟田野町、室生村が平成の大合併でひとつになってできた市です。かつての大宇陀町に位置する宇陀松山地区は、戦国時代から城下町として栄えて「宇陀松山伝統的建造物群保存地区」として奈良県下に3つしかない国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。このあたりは奈良検定の問題に頻出ということもあって体験学習のコースに指定されたのでしょう。大宇陀は幹線道路をクルマで頻繁に通るものの、素通りでじっくり見学したことはなかった。今回はまほろばソムリエが何人も同行して説明してくれるということで、期待して参加したのです。

IMG_1079.jpg この大宇陀というエリアの現状、わたしの故郷の吉野郡下市町に通じるところがあります。すなわち、明治から戦前までは地域の拠点として非常に栄えたけれど、高度成長期以降、人口の都市集中につれて鉄道路線が通っていないことが町の発展にとって構造的な欠陥となり衰退した点です。かつて、宇陀松山の繁栄から地理的にやや外れていた隣町の榛原に鉄道の駅が出現し、中心がそちらに移行したことで、現代的な利便性を欠いた大宇陀はジリ貧状態に陥ります。下市もかつて商業が非常に発達し大吉野地域の中心として栄えていたところが、近代化の時代に近鉄電車が駅を隣の大淀町に造っちゃったもんやから、それ以降衰退の一途をたどったのです。

 なもんで、宇陀松山なんとなく親しみがわきます。阿騎野という地名にしても、かつての吉野郡秋野村になんらかのユカリがあるような気がします。ちなみに私の母校は「秋野小学校」です。

 さて、バスを降りてまず阿騎野・人麻呂公園というところに向かいました。ここに万葉歌人、柿本人麻呂が馬に乗った石像が建っています。

 「東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」 万葉集48

 この歌は、阿騎野に狩猟に来たとき、東の空に曙光が立ち上り、振り返れば西の空には月かげが傾いている、といった冬の夜明け前の様子を詠んだもので、この石像がこの歌を詠んだときのイメージやということになってるそうです。

 和歌のチカラはすごいと思います。中でも特に短歌。スサノオノミコトが初めて創ったそうですけど、以来現代に至るまで57577のルールを全く変えずに連綿と続いています。ごく短い韻律制約の中でなんと見事に情景・心情を詠いあげることか。これまで何万、何億の和歌が詠われてきたのか見当もつきませんがまだまだ尽きることなく続いていきます。八百万の神とともにあり、日々使う言葉にも言霊という神を見いだす日本人なればこその至高の芸術やと思うのです。

 ところで、石像の前でソムリエ氏は人麻呂くんのことやこの公園について熱っぽく説明をしていただいてはいるのですが、いかんせん土砂降りの雨音でよく聞こえません。多分、こんなことを言っているんやろうフンフンと納得して次に向かいました。

 このあと阿紀神社を経て「かぎろひの丘」というところで休憩。雨は一向に止む気配ありませんが、丘の休憩所にはいちおう屋根があって、なんとか昼食を摂れました。午後は大宇陀高校前から古城山を仰ぎ、いよいよ宇陀松山城下のなごり、西口関門を通って松山の伝建地区に移動。旧家についての説明を聞き大願寺を経て、今朝出発した道の駅バス停に戻り無事予定終了。バスで榛原駅に戻りました。一日中傘をさしてたのに、駅についた頃に雨が上がったのは予想どおりでした。

PA204020.jpg ソムリエの皆さん、さすがによく知ってます。どこにも書いてない興味深い話など教えてもらったりで非常に参考になりました。今回のためにもちろん下見も行い、資料も自前で作られてます。なんともありがたいことです。「まほろば」に対する愛情の為せるワザでしょう。

 「体験学習」というだけあって、なるほどテキスト読んだだけの知識とは比較にならないほど印象が違います。百聞は一見にしかず。少なくともこの日に行ったところはおそらく忘れない、試験に出ても大丈夫…やと思います。いちにち楽しめたし、行ってよかった。お天気よければなお良かったのですが。

 榛原駅で空を見上げると、キレイな虹がかかってました。

WELCOME

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PROFILE

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katsuhiko

男 

血はO型

奈良県出身大阪府在住のサラリーマン

生まれてから約半世紀たちました。

お休みの日は、野山を歩くことがあります。

雨の日と夜中はクラシック音楽聴いてます。

カラオケはアニソンから軍歌まで1000曲以上歌えます

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